港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第78回 大田南畝が訪れた小机村


先日、「とうよこ沿線」編集室の岩田忠利(いわたただとし)さんから、梶山季之(かじやまとしゆき)の小説『夢の超特急』(光文社新書、1963年)は新横浜駅建設に伴う用地汚職(おしょく)事件を題材としており、周辺の地名等が沢山出てくる、との話を聞きました。そこで、早速、大倉精神文化研究所附属図書館に初版本を入れてもらいました。梶山季之は取材で新横浜周辺を歩いたようです。
彼の他にも、区域には昔から様々な人が訪れて、記録を残しています。少し遡(さかのぼ)ると、昭和11年(1936)10月、全線開通して間もない東横線に乗って、斎藤茂吉(さいとうもきち)がマンジュシャゲを見ようとして妙蓮寺(みょうれんじ)を2度訪れています。

秋の日のそこはかとなくかげりたる 牛蒡(ごぼう)の畑越えつつ行けり

当時、駅の周辺にはゴボウ畑やトウモロコシ畑が広がっていました。残念ながらマンジュシャゲは見られませんでしたが、茂吉がこの時に散策して詠んだ歌20首が、歌集『暁紅(ぎょうこう)』に収録されています。
江戸時代には、大田南畝(おおたなんぽ)が小机村(こづくえむら)を訪れています。大田南畝(1749~1823年)は、四方赤良(よものあから)・蜀山人(しょくさんじん)などとも名のり、戯作者(げさくしゃ)・狂歌師(きょうかし)として有名ですが、幕臣の家に生まれ、当人も真面目な役人でした。晩年は勘定所(かんじょうしょ)の支配勘定という役職まで昇進しています。文化5年(1808)60歳の時、玉川水防の巡視を命ぜられ、12月から翌年4月にかけて堤防の破損箇所などを調査して廻りました。この時、周辺の村々へ足を伸ばし、多くの見聞録を残しました。その内の1つが『向岡雑記(むこうがおかざっき)』です。この本によると、南畝は、文化6年(1809)正月28日に小机村に宿泊しています。この時、寒そうめん作り(第31回参照)を見学したようです。そうめんには、「下り索麺(くだりそうめん)」と「地索麺(じそうめん)」とがあり、南畝が見たのは、「下り索麺」の作り方で、そうめんの生地(きじ)を管(くだ)という道具へ糸のように掛けて、箸(はし)という竹で細く伸ばしていきます。これを図解入りで説明しています。翌日は泉谷寺(せんこくじ)へ行き、20世恵頓上人(えとんしょうにん、1725~85年)の著作『泉谷瓦礫集(せんこくがれきしゅう)』を書写させてもらっています。3月11日は雨の中を再び泉谷寺を訪れ、大門(だいもん)脇の桜を眺め、宿屋で掛け軸(かけじく)を2幅(ふく)書写しています。さらには、庚子(こうし、安永9年か?)5月3日に泉谷寺住職から聞いた話として、泉谷寺が都筑郡(つづきぐん)と橘樹郡(たちばなぐん)の境にあり、庫裡(くり)は都筑郡、本堂は橘樹郡だと記しています。
『江戸名所図会』を編纂した斎藤幸雄(さいとうゆきお)・幸孝(ゆきたか)親子や、その挿絵(さしえ)を描いた長谷川雪旦(はせがわせったん)も、大田南畝より少し前に、雲松院(うんしょういん)・小机城趾(こづくえじょうし)・泉谷寺(せんこくじ)・師岡熊野神社(もろおかくまのじんじゃ)などを見て回っています。特に長谷川雪旦の絵は、現地での写生をもとにした正確な描写で各地の様子をリアルに伝えていて、高く評価されています。たとえば、師岡熊野神社(現在、修造工事中)は、本殿の覆殿(おおいでん)も、いの池の弁天様も見事に描かれています。
さらに遡ると、聖護院門跡(しょうごいんもんぜき)の道興准后(どうこうじゅごう)が文明18年(1486)6月に京都を出発して、北陸道(ほくりくどう)を経て越後から関東へ入り、各地を廻った後、同年10月、江戸から鎌倉へ向かう途中に、駒林(こまばやし)に宿泊し、新羽(にっぱ)を通過しています。この時の紀行文が『廻国雑記(かいこくざっき)』です。
これらの記録から、区域の昔の様子を知ることができます。

(2005年6月号)