港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第81回 井戸と水道


大倉山駅から線路際を登っていき、大倉山公園の方へ90度左折する角に、昔、展望台のようなコンクリート製の構造物があったのだそうです。現在はアパートが建てられており、当時の様子を窺うことは出来ません。
この構造物の正体を調べていて、駅前の水道本管から大倉精神文化研究所(現大倉山記念館)へ水を引くための第1ポンプ室であったことが分かりました。『回想の東京急行Ⅰ』(大正出版、2001年)の93頁に、その一部が写った写真が掲載されています。屋上が展望台になっていたのでしょうか。ちなみに、山の上には第2ポンプ室もありました。
研究所の建設が始まったのは昭和4年(1929)ですが、太尾(ふとお)・大豆戸(まめど)・菊名(きくな)の辺りに水道が引かれたのは、昭和3年(1928)のことです。後年、大倉山の上まで水道が開通すると、揚水(ようすい)ポンプは不要になり、小屋は取り壊されたものと思われます。それが何時のことかは確認できませんでした。
区域では、日吉周辺で昭和13年(1938)に水道が引かれました。横浜市への編入の条件でした。樽(たる)・師岡(もろおか)辺は昭和26年(1951)頃、新吉田(しんよしだ)辺は昭和34年(1959)に水道が引かれています。
水道が引かれる以前は、井戸水を飲用していました。かつて、区域の低地では、地下水が自噴(じふん)している場所が多数ありましたし、5、6メートル程度の浅井戸を掘るだけで、飲用水が得られました。深く掘りすぎると、赤水(あかみず)と呼ばれたラジウム鉱泉(第62回参照)が出てしまいます。山際では、湧き水(わきみず、絞り水ともいいます)を引いたり、横井戸(よこいど)を掘ったりしました。下田(しもだ)のような高台では、井戸はかなり深く掘らないと水が出ず、ツルベやハネツルベを使って水を汲むのは女性には大変につらい仕事でした。明治の末から大正の始め頃(1910年代前半)になると、手押しポンプで汲み上げるようになりました。電動ポンプは昭和30年頃からです。
水道が普及すると、井戸は不要になりましたが、廃れてしまったわけではありません。総数は不詳ですが、区域には現在でもたくさんの井戸が残っています。その内、154か所(平成15年度末)は「災害用応急井戸」に指定されています。区役所で配布している「港北区防災マップ」を見ると場所が分かります。「災害用井戸協力の家」のプレートが掲げられているのを御覧になった方もおられるでしょう。この制度は、平成7年(1995)1月17日の阪神淡路大震災の教訓を生かして、平成8年度から始められました。当初は災害時の飲料水や生活用水の確保が目的でしたが、飲料水については、水道局の「災害用地下給水タンク(循環式地下貯水槽)」の整備が進んだことから、平成15年8月からは災害時の生活用水としてのみ使用されることになっています。
「災害用地下給水タンク」は、市民がおおむね1キロ以内で飲用水を得られるように設置されているもので、区域では、下田小、日吉台小、新吉田第二小、南日吉団地、新田中、新田小、樽町中、大綱中、県立新羽高、横浜アリーナ、小机小、篠原西小の12か所に設置されています。この他に緊急給水栓が24か所設置されています。
7月23日に千葉県北西部で発生した地震では、区域も震度5弱の揺れが観測されました。今年は関東大震災から82年目、阪神淡路大震災から10年目にあたります。震災時避難場所や広域避難場所、地域医療救護拠点などと共に防災の確認をしておきたいものです。

(2005年9月号)