港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第9回 水と闘う

9月1日は防災の日ですが、港北区の抱える最大の問題は、鶴見川水系(つるみがわすいけい)の水害でした。最近百年間を見ても、大きな水害だけでも約二五回を数えます。なんと四年に一回の割合です。小さな出水は数え切れません。
鶴見川は、川の勾配(こうばい)が緩(ゆる)いために水の流れが遅く、その上に川幅が狭く、また流路が大きく湾曲しているために、大雨が降ると洪水になりやすいのです。さらに、下流の鶴見区では、駒岡(こまおか)の地先の「岩瀬(いわせ)」と、河口(かこう)近くの「がら洲(す)」と呼ばれる二つの岩盤(がんばん)が川床(かわどこ)にあり、下流の川床が比較的浅い状態にあったこと。さらに、上流にある恩田川(おんだがわ)や区内で合流している鳥山川(とりやまがわ)、早淵川(はやぶちがわ)などの支流が、支流とは呼べないほど大きいため、そこから大量の水が流れ込むといった悪条件が重なっていました。そのため、区域での大雨はもとより、上流地域だけでの集中豪雨でも短時間の内に氾濫(はんらん)することがありました。
鶴見川水系の氾濫を防ぐために、江戸時代から河川改修の努力が続けられてきました。水害対策としては、川幅の拡幅(かくふく)、流路の変更、川床の掘削(くっさく)、堤防の改修などがありますが、川幅の拡幅や流路変更は地形上限界があります。川床の掘削は効果的ですが、大工事になるので、江戸時代には幕府に訴えて工事をしてもらいました。しかし、当時の技術力では堅い岩盤(がくばん)の掘削は不可能で、最終的には昭和54年(1979)の工事まで待たなければなりませんでした。比較的簡単な自衛策としては、堤防(ていぼう)を高くすることですが、両岸で一度にやらないと、低い方の堤防が決壊(けっかい)しやすくなるので、川を挟んだ村々はよく争論を起こしました。江戸時代だけでも十件以上もの争論があり、中でも寛政4年(1792)には死者まで出しています。
数百年にわたる様々な治水対策により、昔に比べると水害の危険は減少しています。実際、区域では昭和51年(1976)の堤防決壊以降は大きな水害が発生していません。しかし、今でも鶴見川は警戒水位を超えることがよくあるのです。こうした現状を打開するための大事業が進行しています。次回はそのお話をします。

(1999年9月)