港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第90回 将軍地蔵の主 -佐々木高綱-


前回、鎌倉幕府の御家人(ごけにん)畠山重忠(はたけやましげただ)と稲毛重成(いなげしげなり)を紹介しましたが、その同僚で港北の地にもっと関係の深い人物がいます。名将佐々木四郎高綱(ささきしろうたかつな、?~1214年)です。鳥山(とりやま)に住んでいたといわれています。
鳥山町の三会寺(さんねじ)は、源頼朝(みなもとのよりとも)が佐々木高綱に奉行を命じて創建させたとの寺伝があります。これは承安年間(じょうあんねんかん、1171~75年、しょうあんともいう)の事とも、建久3年(1192)の事ともいわれます。
佐々木氏は、もとは近江国(おうみのくに、滋賀県あたり)佐々木庄(ささきのしょう)を地盤としていましたが、一族の棟梁佐々木秀義(ささきひでよし)は平治の乱(へいじのらん、1159年)で敗れ、相模国(さがみのくに)へ逃げてきました。高綱はこの秀義の四男です。生年不詳ですが、永暦元年(えいりゃくがんねん、1160)に生まれたともいわれており、そうすると承安年間ではまだ十代前半ですから若すぎます。この時期、源頼朝も伊豆へ流されていて、挙兵(きょへい)前ですから難しいでしょう。奉行を命じられたとすれば建久3年のことと思われます。
鳥山町一帯は鎌倉開府の頃より佐々木高綱の所領であり、鳥山八幡宮(とりやまはちまんぐう)は、その鎮守(ちんじゅ)として祀(まつ)られていたといい、高綱は八幡宮の西に館(やかた)を構えていたと伝えられています。三会寺も元は鳥山八幡宮の近く、鳥山町字(あざ)馬場(ばば)にありました。現在の地に移ってきたのは延文元年(えんぶんがんねん、1356)のことです。かつて三会寺があった場所を「元屋敷(もとやしき)」といいますが、元屋敷とは佐々木高綱の屋敷跡だとする説もあります。
鳥山八幡宮の裏山を越えて、砂田川(すなだがわ)へ降りる坂道の途中に将軍地蔵(しょうぐんじぞう)を祀(まつ)ったお堂(鳥山町219番地)があります。この地蔵は、高さ2尺程(にしゃくほど、約60センチ)で、佐々木高綱が播州(ばんしゅう、兵庫県)へ行った時に、なんと馬上へ飛んできたもので、高綱はこれを守り本尊としました。高綱が戦場で多くの武功を立てられたのはこの地蔵の加護によるものとして、高綱は鳥山八幡宮の参道の脇にお堂を建てて祀ったそうです。お堂が現在の地に移転したのは昭和になってからのことで、その不思議な経緯は、将軍地蔵の霊験(れいげん)と共に『港北百話』に詳しく記されています。
治承4年(じしょうよねん、1180、ちしょうともいう)に源頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると、佐々木高綱ら四兄弟は頼朝に従い多くの武功を挙げますが、その一方で高綱は信仰心が厚いことでも有名でした。『吾妻鏡(あずまかがみ)』では、源平の争乱で焼失した東大寺の再建に、俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)と共に尽力したことが詳しく記されています。
高綱は、建久6年(1195)に出家して家督を息子重綱(しげつな)に譲り、諸国を巡る旅に出ますが、『吾妻鏡』には、出陣する重綱の鎧(よろい)が体に合っていないのを見て戦死を予言したとの記事もあります。
さて、佐々木高綱といえば、なんといっても宇治川(うじがわ)の合戦で先陣を切ったことが有名です。その話は次回に。

(2006年6月号)