港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

第124回 区役所庁舎も70周年 -区制70周年記念-

  

港北区は、今を去る70年前、昭和14年(1939年)4月1日に誕生しました(第11回参照)。港北区が70周年を迎えたということは、港北区役所も70周年を迎えたということです。そこで、今回はその御祝いとして、区役所庁舎の変遷を調べてみました。
『港北区史』によると、都筑郡・橘樹郡の村々を横浜市へ編入することは、昭和13年7月に決まったそうです。それから翌年4月まで8ヵ月の間に様々な準備が急ピッチで進められました。当時市職員だった塩田利(昭和24~26年に港北区長)の回想が区史に掲載されていますが、それによると、3月20日過ぎになって区役所の位置が決まっていないことに係員が初めて気付き、あわてて大綱小学校篠原分教場跡地(篠原町2148番地、現富士塚2丁目)を選定し、3月29日の市会に間に合わせたのだそうです。同じ塩田氏の回想ですが、『われらの港北 15年の歩みと現勢』によると、合併の話がもつれにもつれて3月30日午前5時になってやっと決着し、それからさて区役所をどこにするかという話になったが、もう猶予もないので篠原の分教場跡ということで落ち着いたとしています。いずれにしても、準備不足でした。
最初の区役所は、こうして元大綱小学校篠原分教場校舎を当分の間の仮庁舎として出発しました。しかし、ここは場所が狭い上に、利用するには東横線の無人踏切を渡らなければならず不便でした。そこで、正式な区役所庁舎を建てるために、用地を菊名町780番地に選び、木造2階建ての庁舎が建設されました。昭和17年(1942年)1月15日に仮庁舎より移転し、3月30日に新築落成式が挙行されました。ところが、この庁舎は不運でした。わずか2年後の昭和19年2月2日、用務員の部屋にあったカマドの煙突が加熱し火災を起こしたのです。港北消防署が設置されるのは昭和26年のことで、それ以前は神奈川消防署から消防車が来ていました。これでは消火が間に合いません。庁舎2階の全部と1階の一部を焼失しました。その上、戦争中のことで応急修理も思うに任せず、約1ヶ月の間、大綱小学校で区政事務をとることになりました。庁舎の増改築が出来たのは、戦後の昭和23年(1948年)のことでした。12月4日に区勢施行10周年と庁舎の竣工式が行われています。しかし、これもほんの一時のことでした。
昭和35年(1960年)、区役所・保健所・公会堂が一か所に集められることになり、菊名町の元の場所に鉄筋3階建ての総合庁舎を建てます。4月11日に第1期工事が終わり、新庁舎で区役所事務が始まりました。同年10月20日区制施行20周年・総合庁舎落成記念式典が盛大に挙行されています。港北公会堂の開設は12月1日でした。
昭和44年(1969年)緑区が分区され、区域は狭くなりますが、その後も人口は増加の一途をたどります。区役所の業務も増え、庁舎は手狭になりました。新しい総合庁舎を建てることになり、昭和52年(1977年)4月12日、現在地(大豆戸町26-1)で起工式が行われました。昭和53年(1978年)11月6日、鉄筋4階建ての新しい総合庁舎が完成しました。この庁舎を現在も使用しています。庁舎は昨年7月16日より耐震補強工事に入り、平成22年(2010年)2月の完了を目指して現在も工事が進められています。これからも当分の間、この庁舎を使うことになるのでしょう。
ちなみに、菊名の旧庁舎跡地には図書館を建設することになりましたが、地盤が緩いために解体から新築に3年の歳月を要することが分かり、昭和54年2月19日になり元の庁舎を改築利用することに決まりました。昭和55年8月25日、1、2階が港北図書館、3階が菊名地区センターとして開館しました。この建物は当初「港北センター」と呼ばれましたが、現在ではその名は使われていません。いつから呼ばれなくなったのでしょうか。

付記 大倉精神文化研究所から、講演録『横浜 港北の地名と文化』が刊行されました。『港北の歴史散策』『横浜港北の自然と文化』に続く、三部作の最終巻です。


(2009年4月号)

 

 

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