『楽・遊・学』平成21年8月号原稿

シリーズ わがまち港北

第128回 配給は…、もらえるの?-終戦秘話その12-

 

港北区制七〇周年を迎えて、各地で記念イベントが盛んに行われています。こういう時に盛り上がる話題は、なんといっても食べ物です。二月二八日・三月一日の大倉山観梅会(かんばいかい)では、大倉山商店街の和洋菓子五店舗のスイーツを詰め合わせた「大倉山梅づくし」が販売されました。六月二一日、菊名地区センターでのトークショー「地域のお宝~匠に聴く~」、第二回目は小泉糀屋(こうじや)さんから糀(こうじ)や味噌の話を聞きました。六月二八日には新羽で七〇メートルの流しソウメンがありました。
そこで、昔の食べ物に興味がわき、大豆戸町(まめどちょう)の武田信治(のぶはる)さんご夫妻に話を伺いました。戦争の追体験として、今でもすいとんを作って食べたりしますが、昔のすいとんはダシが入っておらず、とても不味かったそうです。米の配給は少なくて、白米ではなく七分搗(づ)きでした。しかも配給の米にはコーリャンや粟(あわ)など雑穀が混ぜられていたそうです。豆かす(大豆から油を取った後の絞りかす)は、軽自動車のタイヤのようなドーナッツ形の塊(かたまり)で配給され、それを削って米にたくさん混ぜて食べたのですが、とても不味かったそうです。サツマイモも、大きいばかりで味の悪い農林何号、沖縄何号(沖縄一〇〇号?)などという品種が配給になりました。砂糖もなくて人工甘味料のサッカリンやズルチン、塩も山塩(やまじお)(岩塩、牛の餌だったものと思われます)が配給になりました。衣服は、衣料切符とお金を持って買いに行きました。配給品はなんでもお金を出して買っていたのだそうです。戦後生まれの筆者は、配給とはタダで配ってもらえるものかと思っていましたが、買う権利が与えられるだけで、お金を出さないと手に入らなかったとのことです。驚きました。そこで、大倉精神文化研究所の所蔵資料を調べてみました。
昭和十二年(一九三七年)から始まった日中戦争が泥沼化していくと、国内の生活必需物資が不足してきました。政府は国家総動員法に基づき、生産統制や価格統制を進め、流通を統制する配給を始めます。
横浜では、まず昭和十五年(一九四〇年)六月一日から砂糖とマッチが配給制となります。ついで木炭(十五年一〇月~)、米(十六年四月~)、塩(十七年一月~)、薪(まき)(十七年一一月~)なども順次配給となります。配給品は、家族の人数により家単位で割当量が決められました。研究所には、図書館の閲覧者や修養会の参加者などが多数来館していましたし、食堂もありましたので、「マッチ特別需要申請書」「業務用塩買受申請書」「小口業務用燃料配給申請書」などを毎月市長宛に提出して必要物資を確保していました。また、それらを正しく使ったのか、毎月の「給食人員調査報告書」も提出させられていました。
「小口業務用燃料通帳」や領収証によると、薪や木炭は、おもに横浜家庭燃料小売商業組合神奈川支部第一四家庭燃料配給所(南綱島町九七〇番地加藤方)から購入していました。昭和十七年一一月で、木炭一俵が二円二七銭、薪一束が三九銭でした。樽町三一八番地にあった港北第二燃料配給所からも時々購入しています。
米は、米穀綱島共販所(南綱島町七〇三番地)から購入していましたが、昭和十六年一月には「外米(がいまい)二割未満」が混ぜられていたことが、伝票で分かります。三月の伝票では、外米の混合が「五割未満」に増えています。外米とは、外国産のインディカ種の米です。粘り気が少なく、ジャポニカ種の内地米(ないちまい)とは食感が異なり敬遠されます。平成五年(一九九三年)の凶作で多量に輸入されたことがあるのでご記憶の方も多いでしょう。
昭和十六年四月から米の配給が始まると、店の名前は「横浜米穀小売商業組合神奈川支部第一五共販所」と呼ばれるようになります。十六年夏頃には、「内地米三、外米六、モチ米一」の割合で混ぜられている伝票が多くあります。秋になり、新米が出回るようになると、内地米の割合が多くなります。
昭和十七年九月三日の伝票では、「内地米五.五、外米二.五、麦一」の割合になっています。米を買っているのに、麦が混ぜられています。値段は、二八キロで八円三〇銭でした。これ以降、米の混合比率は書かれなくなります。コーリャンや稗(ひえ)などの雑穀が混ぜられるようになるのは、この後のことでしょう。
やはり、配給物資を手に入れるにはお金が必要だったのでした。

 

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)


 

wagamachi_image.jpg

書籍『わがまち港北』公式サイトは↑↑↑をクリック