『楽・遊・学』平成22年9月号原稿

シリーズ わがまち港北

第141回 鶴見川からやってきた  -土岐源三郎の記念碑-

 

港北区役所が平成22年に開始した「港北区地域のチカラ応援事業」の、補助金交付団体が決定しました。区役所のホームページを見ると、その交付団体の1つである「鶴見川舟運復活プロジェクト」が7月17日に舟造りの起工式を行った様子が掲載されています。同じく交付を受ける「港北ふるさとテレビ局」も、起工式の取材をしていました。区民手作りの舟が鶴見川に浮かぶ日が今から楽しみです。
さて、鶴見川中流域に位置する港北区域には、川をさかのぼる舟で下流から多くのものが運ばれてきました(第7回参照)。それは、単に肥料や農作物などの品物の運搬というだけでなく、古くは、杉山神社を創建した氏族(しぞく)が房総半島から東京湾を横切り、鶴見川を上って移住してきたという説があります(第52回参照)。また、新羽町の西方寺(さいほうじ)も、室町時代に鶴見川を舟で上って鎌倉から移転してきたお寺です(第114回参照)。
最近、新羽町の土岐武(ときたけし)家(屋号ハヤマ)も同じようにして転居したとの話を伺いましたので、調べてみました。
土岐家の祖先は、下総国古河藩(しもうさのくにこがはん)に仕える武士で、馬術の名手として藩主から「驥(はやま)」の名をもらっていました。幕末には、駒込にあった古河藩の江戸下屋敷に勤務していました。明治になり、廃藩置県(はいはんちけん)、秩禄処分(ちつろくしょぶん)などにより、武士は生活基盤を失います。土岐驥頼寛(ときはやまよりひろ)は、舟に家の柱や家財を乗せて、鶴見川を上り、太尾河岸(ふとおがし)で荷車に乗せ替え、家族と共に新羽に移転してきたとの言い伝えが残っています。土岐頼寛は、こうして新羽に移転して来ましたが、東京が恋しくて一度東京に戻り、その後改めて新羽に住むことになったとの話です。ご教示くださった土岐武さんによると、この時建てた家は、凸型をした茅葺(かやぶ)き2階建てのお寺のような建物でしたが、家の規模の割に柱がとても細かったそうです。この家は昭和48年(1973年)に建て直され、現存しません。
この話だけでも興味深いのですが、もう1つ興味深いものを見せていただきました。新羽に来た土岐頼寛の跡取り息子は、源三郎(げんざぶろう)といいました。土岐家には、源三郎の事績を記した石碑(せきひ)が建てられています。
地蔵・狛犬(こまいぬ)・鳥居(とりい)・板碑(いたび)・記念碑など港北区内にある様々な石像物については、『横浜市文化財調査報告書第17輯』(横浜市教育委員会、1988年)に詳細な調査がなされており、その採録数は約580点に及びます。しかし、土岐家の石碑はこれに収録されていませんので、鶴見川舟運復活プロジェクトの方々と調査させていただきました。その成果を少し紹介しておきましょう。
石碑の土台はコンクリート製で、その上に高さ134㎝、幅65㎝、厚さ9㎝ほどの石板(せきばん)が建てられています。正面上方に大きく「祭祀(さいし)」と彫られていて、その下に土岐源三郎の事績が刻まれています。碑文(ひぶん)は昭和3年(1928年)11月24日付けで、裏面に「御大典(ごたいてん)記念」とありますから、昭和天皇の即位を記念して建立(こんりゅう)したものであることが分かります。文章を書いたのは平本由五郎、石工は小机町の鈴木仙吉です。
碑文によると、源三郎は慶応4年(1868年)に古河藩江戸藩邸で生まれています。父と共に、舟で新羽に転居してきました。源三郎は、剛毅豁達(ごうきかったつ)(意志が強く小さな事にこだわらない)な性格で、敬神崇祖(けいしんすうそ)の念に厚く、和漢の学問を広く学んでいて、特に易学(えきがく)を得意としていました。若くして、政府の「教導職(きょうどうしょく)」という役人になります。この頃、甲子講(きのえねこう)を創り新羽周辺の各村に広めたとあります。現在、北新羽の杉山神社に合祀(ごうし)されている子大神社(ねだいじんじゃ)(ねのかみさま)の子大講(ねだいこう)がこれです。
源三郎は、その後皇典講究所(こうてんこうきゅうじょ・後の国学院大学)を卒業し、神主の資格を得て、新羽の杉山神社の神主となります。さらに、新吉田や大熊(都筑区)の杉山神社、小机の住吉(すみよし)神社など近隣の神社の神職を数多く兼務し、小さな神社の合併や社殿の改築などに尽力しました。その功績が認められ、大正13年(1924年)に神奈川県神職会より表彰されています。そして、昭和2年(1927年)には都筑郡(つづきぐん)神職会長に選ばれています。源三郎は7男に恵まれました。子孫の中には現在でも神職についている者が複数おられます。
最初に述べたように、杉山神社は鶴見川を上ってきた人たちが勧請(かんじょう)したという説があります。同様に鶴見川を上ってきた土岐源三郎がその杉山神社の神主となったのは不思議な縁(えにし)といえましょう。港北区内には、長い時を経て忘れられた人物や、未調査の資料がまだまだ数多くあるようです。

 

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所研究部長)

 

 

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