『楽・遊・学』平成22年12月号原稿

シリーズ わがまち港北

第144回 坂の上の研究所  -日露戦争と港北区-

 

NHKのテレビドラマ化により、司馬遼太郎(しばりょうろう)の『坂の上の雲』が評判となっています。同書は、明治維新から日露戦争(明治37~8年、1904~5年)の時期を描いた長編歴史小説です。当時の日本には徴兵(ちょうへい)制度があり、成人男子は兵役(へいえき)に就くことが義務とされていました。そのため、日露戦争には港北区域からも大勢の兵士が出征(しゅっせい)しました。
たとえば、藤沢三郎著『吉田沿革誌』(第54回参照)には、当時の新田村(にったむら)(新吉田(しんよしだ)、新羽(にっぱ)、高田(たかた))の全世帯数は446戸であり、そこから96名の兵卒が出征したことが記されています。その上に、大麦519石(こく・約93.4トン)、藁叺(わらかます・ワラムシロを二つ折りにして作った袋)2,320袋、太縄(ふとなわ)1,200メートルが徴発(ちょうはつ・強制的に取り立てること)されています。戦後、明治41年(1908年)3月には在郷軍人会の新田村奨兵会(しょうへいかい)が、新田小学校(にったしょうがっこう・現在の新田地区センターの場所にあった)の校庭東隅に、乃木希典(のぎまれすけ)大将の書により建立(こんりゅう)した「日露戦役紀念碑」(にちろせんえききねんひ)には、出征者全員の名前と共に死者6名の名前が刻まれました。この紀念碑は、昭和37年に新羽町西方寺(さいほうじ)へ移されました。

区内の他の地域から出征した兵士の人数は確認出来ていませんが、『城郷地区つわもの回想録』によると、城郷(しろさと)村(岸根・鳥山・小机と神奈川区の6地区)では13名の戦没者があり、明治43年(1910年)12月に城郷小学校に「日清日露戦役陣亡軍人碑」(にっしんにちろせんえきじんぼうぐんじんひ)が建てられました。その後学校は現在地に移転し、碑だけが残されましたが、昭和51年(1976年)に夏草会が修理し、昭和60年に鳥山神社の鳥居右脇に移転されています。この碑に祀られている戦死者の1人については、小机本法寺(ほんぽうじ)に忠魂碑(ちゅうこんひ)も建てられています。
箕輪町(みのわちょう)諏訪神社の狛犬(こまいぬ)一対は、町内の出征者13名と他3名が奉納したものです。戦没者も1名おられます。
この他にも大勢の出征者、戦没者があり、いくつもの石碑が建てられていることと思います。ご存じの方はご教示ください。
さて、7月のある日、朝日新聞大阪本社より電話がありました。『坂の上の雲』の主人公である秋山兄弟の弟、秋山真之(あきやまさねゆき)の長男、秋山大(ひろし)が大倉精神文化研究所に勤めていたのではないかとの問い合わせでした。早速調べたところ、確かに研究所に勤務していました。
秋山真之(さねゆき)は、四国松山出身の海軍中将で、日露戦争では、司令長官東郷平八郎(とうごうへいはちろう)のもとで連合艦隊参謀(さんぼう)として日本海海戦を勝利に導いた人物として知られています。真之は戦争の悲惨さを体験したことから、晩年は信仰を大切にしました。真之は4男2女に恵まれますが、長男の大(ひろし)は明治39年(1906年)に生まれています。父真之は息子大に、宗教による人格の確立と社会の救済を託しました。大は、昭和8年(1933年)8月、27歳の時に大倉精神文化研究所嘱託研究員となり、日本仏教研究を委嘱されています。秋山大は、僧侶の資格を持っていたらしく、また曹洞宗大学(そうとうしゅうだいがく・現在は駒澤大学)に学んだこともあるようですが、もっぱら独学で仏教を学んでいたらしく、学歴等詳細は確認出来ませんでした。他の研究員が皆大学卒であった中で、珍しいことです。研究員となった秋山大は、仏教芸術や仏教史の研究をしていました。昭和15年は父真之の23回忌でしたが、この年に刊行した著書『現世信仰の表現としての薬師造像(やくしぞうぞう)』には、自身の研究動機は父の遺志に基づくものであることが記されています。昭和18年に刊行した『古代発見』には、父真之が日本海海戦直前に書いた「敵艦見ゆとの警報に接し、……本日天気晴朗(せいろう)なれども浪(なみ)高し」の有名な大本営への報告文の秘話も記されています。秋山大は、昭和18年(1943年)8月30日付けで、「病躯(びょうく)」を理由に辞職しています。37歳でした。
父親の秋山真之は俳人正岡子規(まさおかしき)と親友で、東京に出て同じ下宿で机を並べ大学予備門(のちの一高(いちこう))、現在の東京大学教養学部)に通(かよ)った仲でしたが、同窓生には夏目漱石(そうせき)や長野宇平治(うへいじ)がいました。2人が大倉精神文化研究所と縁があったことは以前に書いたとおりですが(第83回参照)、思いがけない問い合わせから、秋山真之とも縁があったことが分かり、驚きを禁じ得ません。

 

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所研究部長)

 

 

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