『楽・遊・学』平成23年2月号原稿

シリーズ わがまち港北

第146回 工場から学校へ  -安立電機と高田小学校・新田中学校-

 

前々回の日露戦争の記事で、秋山真之(あきやまさねゆき)の「敵艦見ゆとの警報に接し…」という報告文を紹介しましたが、樽町(たるまち)の吉川英男さんから、「日露戦争で明治38年信濃丸(しなのまる)から連合艦隊の三笠(みかさ)に「敵艦見ゆ---」とバルチック艦隊の位置を知らせる有名な無線通信を発信したのは安立電気(あんりつでんき)の前身の安中電機(あんなかでんき)製の三六式無線機(さんろくしきむせんき)でした」と教えていただきました。
この安中電機製作所は、やがて共立電機株式会社と合併し、安立電気株式会社(現、アンリツ株式会社)となりました。本社と工場は東京麻布(あざぶ)にありましたが、昭和15年(1940年)7月に、軍需生産の飛躍的増大を予測して、港北区新吉田町(しんよしだちょう)1600番地に吉田工場を開設しました。
吉田工場の敷地面積は31,433坪で、現在の新吉田東5丁目の東半分を占めていました。吉田工場の規模は、やがて本社工場をしのいでいくのですが、前途は多難でした。まず、昭和16年7月には暴風雨により鶴見川の堤防が決壊し、1.36メートルもの浸水被害に遭い、1ヵ月間の操業停止となりました。その後盛り返して、最盛期には、建物60棟、延べ面積13,000坪、従業員は3,635人を数え、軍需用の有線無線機器、搬送機器、計測器などを生産していましたが、昭和20年(1945年)4月15日には、空襲により11棟が焼失しています。戦後、会社は経営難となり、吉田工場は昭和25年5月に閉鎖されることになります。
ちょうどその頃、高田(たかた)では、高田小学校の独立の機運が盛り上がっていました。高田小学校は、明治7年(1874年)8月1日に高田学舎(たかたがくしゃ)の名前で、興禅寺(こうぜんじ)の1室を借りて開校した古い学校です。翌年、高田学校と改称し、明治12年(1879年)には現在の興禅寺墓地の辺りに茅葺(かやぶ)きの校舎も新築されました。明治28年(1895年)、神奈川県知事中野健明(なかのたけあき)から「日清戦役戦勝記念」として、県下の小学校に楠(くすのき)のタネが配られました。高田学校では、子供たちが校庭の隅に植えました。タネはやがて大木になり、横浜市の名木古木にも指定され(指定番号48164)、興禅寺墓地に今でもそびえています。この楠により、校舎は「楠校舎」の愛称で呼ばれました。当時の高田学校には体操場の設備が無かったので、生徒たちは、興禅寺や、前回紹介した天満宮に行って体操をしたそうです。
大正12年(1923年)に、校名を高田尋常小学校と改称し、大正14年に現在地へ移転します。ところが、昭和恐慌の影響で学校経費の削減が必要となり、新田村でも小規模校の統合が進められることになりました。昔、小学校は村立で、地域は小学校を中心としてまとまっていましたので、高田の人たちは存続運動を熱心に行いましたが、高田小学校も昭和7年(1932年)4月から新田尋常高等小学校に統合され、高田分教場にされてしまいました。皆さんよほど悔しかったのでしょう、分教場の門札は一晩で割られてしまい、二度と掲げられることはありませんでした。また、通常の分教場は、小学校1年生から4年生までの小さい子が通い、5年生からは本校へ通(かよ)ったのだそうですが、高田の人たちは登校拒否など大反対をして、特別に6年生まで分教場で勉強することになりました。しかし、その後も高田の人たちにとっては、分教場から独立校になるのが悲願でした。
昭和19年(1944)になると戦争が激しくなり、都市部から疎開してきた人たちにより、港北区域の人口は急増します。高田分教場でも、一度に全員が授業を受けられなくなり、2部授業をするようになりました。2部授業は戦後も続きましたので、昭和24年(1949年)3月、高田町では分教場を増築することに決めました。しかし、横浜市が建ててくれるのではありませんでした。その経費150万円は、全額を町で負担しなくてはならず、町内全ての家から平均15口(1口が500円)の寄付を受けて捻出(ねんしゅつ)しました。校舎の建築資材は、同年7月に安立電機から吉田工場の遊休資材倉庫(65坪)を13万円で買い取りました。また、学校前の畑を借り受けて校地を広げました。整地作業は、町内全員の労働奉仕でした。こうして出来た校地に、吉田工場の建築資材で校舎を建て増ししたのです。昭和25年(1950)2月10日、分教場は横浜市立高田小学校として新田小学校からの独立が認められました。校舎は、2月28日に完成し町から横浜市へ寄付されて、3月1日から授業が始められました。
一方、新田小学校には、昭和22年から新田中学校が併設開校されていました。新田中学校も独立した校地を求めていましたが、通学距離との関係で新校地の決定に手間取ります。結局、地域住民が安立電気吉田工場敷地の一部を買い取り、学校敷地として市へ寄付し、昭和26年に独立しています。高田小学校といい、新田中学校といい、当時の人々の教育に対する熱意には敬服させられます。

 

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所研究部長)

 

 

 

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