『楽・遊・学』平成23年5月号原稿

シリーズ わがまち港北

第149回 関東大震災の教訓と東日本大震災  -その1-

 

3月11日午後2時46分、牡鹿半島(おしかはんとう)の東南東約130km付近の海底を震源地としてマグニチュード9.0の大地震が発生しました。東北地方太平洋沖地震、東日本大震災です。港北区域は震度5強でした。筆者は、その時横浜市大倉山記念館(元大倉精神文化研究所本館)内にある大倉精神文化研究所附属図書館の閲覧室にいました。その夜は非常勤職員7名と共に翌朝まで泊まり込みました。
後日、多くの方から、「大倉山記念館と書庫は大丈夫ですか」と聞かれましたが、無事でした。記念館の建物は、関東大震災の教訓を生かして、太い柱に小さな窓、厚い壁で頑丈に作られています。また、通常の図書館は、建物が完成した後に書架(しょか)を入れるので、地震が起きると書架が建物以上に大きく揺れて倒れる危険性があります。しかし、記念館の書庫は、積層書架(せきそうしょか)と呼ばれる構造をしていて、建物の躯体(くたい・骨組み)と書架が一体となっています。本箱がそのまま建物になっていると言ってもよいでしょう。そのため、建物と同じように揺れただけで、本はほとんど落ちませんでした。
大正12年(1923年)の関東大震災については、連載の第21回と第34回で書きました。その他にも災害や防災の話を何度も書いています。大倉精神文化研究所のホームページや『わがまち港北』の本で読むことが出来ます。ご覧ください。
私たちは、過去の震災から何を学んできたのでしょうか。そして今回の震災からどのような教訓を学び、何を後世に伝えていけるのでしょうか。その事を考えるためにも、もう一度関東大震災について述べておきます。
まず、地震の様子ですが、激しい揺れのために人々は立っていることが出来ず、地面に伏せたり木にしがみついたり、あるいは転(ころ)がったりしたそうです。漆原粂七(うるしばらくめしち)さんの回想に、「こやしだめの中味が地ゆれのたびにこぼれこぼれて、空っぽになっていた」(『大綱今昔』(おおつなこんじゃく))とあります。下肥(しもごえ)を使用していた当時の農村の生活が背景にあります。88年前の港北区域は、家屋がまばらな農村地帯でしたので、市街地のような大きな火災は発生しませんでした。
「けやきの木が、大風にあったようにゆれていました」(『わたしたちのまち高田』)との記述もありました。今回、大倉山のヒマラヤ杉の大木が激しく揺れましたが、それは、大風の時に枝の先端へ行くほど激しく揺れるのとは違って、筆者には太い幹(みき)の根元からグニャグニャと揺れて見えました。
被害状況については、『神奈川県震災誌』に村ごとの統計が詳しく記されています。港北区域でも、全家屋の内、8割近い家が全壊・半壊・その他何らかの被害を受けたのですが、数字だけでは、その持つ意味を読み解けません。港北区域の被害を記録した写真がたくさん残されていると良いのですが、筆者が確認できたのは、『港北50&TODAY』に掲載されている大綱橋(おおつなばし)・綱島方面を写した写真1枚のみです。手前に写っている樽(たる)側の地面には、幾筋もの大きな地割れが生じて、大人の膝ほどもある段差が出来ています。
漆原粂七さんは、「鳥山川(とりやまがわ)堤防は凸凹(でこぼこ)ができて、くねくねと続く坂道になってしまい、このくぼみから水が流れ込んできたが、修復することができなかった。鶴見川には大穴があいていた」(『大綱今昔』)と回想しています。
鶴見川は、明治43年(1910年)の大洪水の後、県が中心となり大正3年(1914年)にかけて綱島辺りの堤防を改修しました(大正堤(たいしょうづつみ))し、大正10年(1921年)6月には国の直営改修河川に編入され、同年7月には「鶴見川改修期成同盟会」が結成されていますが、まだ本格的な改修には至っていませんでした。新田村(にったむら・現在の新羽(にっぱ)・新吉田(しんよしだ)・高田(たかた))では、鶴見川堤防が31ヵ所、早渕川(はやぶちがわ)堤防が21ヵ所も破損しました(『神奈川県震災誌』)。

 

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所研究部長)

 

 

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