『楽・遊・学』平成24年5月号原稿

シリーズ わがまち港北

第161回 あたかも闇夜のごとし -若雷神社縁起-

 

前回紹介した県下45名勝・史蹟投票で29位に入った新吉田の若雷神社(わからいじんじゃ)は、昭和11年2月13日の『横浜貿易新報』で詳しく紹介されました。その一部を引用しましょう(少し読みやすくしました、以下同様)。
鶴見、神奈川臨港(りんこう)の工場地帯を臨(のぞ)む高台-都筑郡(つづきぐん)新田村(にったむら)吉田広地(こうち)の真っ只中に、そびえ立つのが由緒を誇る村の鎮守(ちんじゅ)若雷神社だ。1,000年も年経(としへ)たりといわれる周囲1丈(じょう)8尺(しゃく)(約5.5メートル)の古松(こしょう)・老杉(ろうさん)がこんもりと繁って、翻然(ほんぜん)襟(えり)を正(ただ)す神域は、はるかの石段から境内まで村の学童や青年達の手で掃き清められ…
若雷神社が鎮座(ちんざ)しているあたりの丘を字(あざ)「宮之原(みやのはら)」といい、南東に開けた景勝地です。
由緒書によれば、若雷神社は、清和(せいわ)天皇(在位858年~876年)の頃に京都上賀茂(かみがも)神社の別雷命(わけいかずちのみこと)を勧請(かんじょう)したもので、武蔵国(むさしのくに)と常陸国(ひたちのくに)の2ヵ所に建てられた神社の内の1つとされています。六国史(りっこくし)の1つ『日本三代実録』貞観(じょうがん)6年(864年)7月27日条に、武蔵国若雷神を従五位上(じゅごいのじょう)に叙(じょ)したとの記述があることから、これが新吉田の若雷神社であるといわれています(別の説もあります)。『新編武蔵風土記稿』では、「鎮座(ちんざ)の年歴(ねんれき)を伝えず」と書かれています。祭神が「別雷命(わけいかずちのみこと)(若雷命(わかいかずちのみこと)ともいう)」であることから、かつては雷電(らいでん)様、雷電社の名で呼ばれていましたが、明治5年(1872年)に若雷神社と改称しました。
明治41年(1908年)に村内の15社を合祀(ごうし)しますが、この時の神主が以前に紹介した土岐(とき)源三郎です(第141回参照)。
以前の社殿は寛政(かんせい)10年(1798年)に建てられたもので、関東大震災で一部倒壊したのですが、それを修復して使用していました。しかし老朽化し、昭和47年(1972年)に再建したものが現在の社殿になります。
「銀行」の屋号(やごう)で知られる加藤家(第148回参照)には、寛永(かんえい)5年(1628年)7月の年記がある「若雷神社縁起」が伝えられています。それによると、元弘(げんこう)3年(1333年)は正月から5月まで関東は大干魃(かんばつ)に見舞われていました。そうした中で、新田義貞(にったよしさだ)が護良親王(もりよししんのう)を奉じて鎌倉の執権(しっけん)北条高時(ほうじょうたかとき)を討たんと上野国(こうづけのくに)新田荘(にったのしょう)(現、群馬県)で挙兵します。鎌倉を目指して進軍する義貞(よしさだ)軍は、吉田村にさしかかった時、水不足による疲労から動けなくなりました。義貞は、村人から雷神を祀(まつ)る若雷神社のことを聞き、雨乞いの祈祷をしたところ、神雨(しんう)が降りました。その時の様子を、次のように記しています(原漢文)。
28日未刻(ひつじのこく)(14時頃)、一点の墨雲(ぼくうん)乾(いぬい)(北西)の方(かた)に現れ、瞬間にして虚空(こくう)(大空)の中に充満し、あたかも闇夜のごとし。轟雷(ごうらい)天地に響き、電光闇中(でんこうあんちゅう)を貫(つらぬ)き、雨勢(うせい)篠(しの)を突く。この時数万の兵歓喜に堪(た)えず、相(あ)い共に閧声(ときのこえ)す。
こうして力を盛り返した義貞軍は、ついに鎌倉を攻め落としました。
当時、この辺りはイネ科の多年草である葭(よし)が群生していたことから、ヨシダは「葭田(よしだ)」と書いていましたが、新田義貞が、とてもめでたいことなので「葭(よし)(アシとも読む)」ではなく「吉(よし)」だと言って、以来「吉田」と書くようになったという伝承を記しています。
吉田という地名の由来について、藤澤三郎(ふじさわさぶろう)は『吉田沿革誌』の中で、(新田義貞とは関係無く)「葭」は画数が多いので、画数が少なくて書きやすい上に目出度い「吉」の字に改めたのではないかという推測をしています。
また別の説では、山城国(やましろのくに)の吉田神社から土地神の雷神(由緒書では春日(かすが)大明神)をこの地に勧請したことから、地名を「吉田」としたという説もあります。
吉田が新吉田となった経緯については第53回で書きましたが、吉田村は新羽村(にっぱむら)・高田村(たかたむら)と共に明治22年(1889年)から昭和14年(1939年)まで新田村(にったむら)を形成していました。通説では、「新田(にった)」は3村の名前の一部を集めて作った自治体名といわれていますが、藤澤三郎の『吉田誌』には、新田義貞の故事から、藤澤が「新田」の村名を言いだして、新田に決まったと書かれています。
さて、5月21日の朝、太陽が隠れて「あたかも闇夜のごとし」の状況になります。173年ぶりの金環日食(きんかんにっしょく)です。国立天文台によると、その中心線が若雷神社の少し北側、第3京浜都筑インターから下田(しもだ)小学校のあたりを通るようです。晴れれば、区内全域で綺麗な金環日食が観測できます。楽しみですね。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所研究部長)

 

 

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