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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第102回 行者加藤得又と菊名新栄講

2007.06.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


今回の調査の過程で、保険代理店の齋藤吉徳(さいとうよしのり)さんから、寒行者(かんぎょうじゃ)姿の祖父吉五郎(きちごろう)さんの写真(大正9年撮影)と、新栄講(しんえいこう)の節分会(せつぶんえ)の記念写真(昭和10年)を見せていただきお話を伺いました。齋藤吉徳さんへの取材の様子は『菊名新聞』7月号に、雪の残る菊名水行場節分会の写真は10月号に掲載される予定です。お楽しみに。

さて、成田山と水行(すいぎょう)といえば、二宮尊徳(にのみやそんとく)が思い出されます。尊徳は、桜町(さくらまち、栃木県)の復興事業に苦しみ、成田山に21日間断食参籠(だんじきさんろう)して事業の成就(じょうじゅ)を祈願しました。その時に水行もしたといわれており、成田山の水行場にはその当時からの建物が現存します。一方、菊名に現存するのは新栄稲荷神社だけですが、かつては水行場があり、不動尊も祀(まつ)られていました。加藤正子さんや関係者の方のお話を中心として、水行場と菊名新栄講についてまとめてみましょう。

行者加藤得又(かとうとくゆう)は、本名を加藤浦蔵(うらぞう)といい、明治22年(1889年)太尾(ふとお)に生まれました。若いとき、ひどい神経痛に苦しみ、成田山へ修行に入り、そのまま僧侶となったのだそうです。その後、横浜野毛山の水行堂(すいぎょうどう)で行者をし、菊名にも水行場を開くことになります。大正6年(1917年)頃のことでしょうか。菊名水行場を開くとき、大勢の人が行列をして、野毛から菊名まで荷物を運んできました。その時、妙蓮寺の近くで撮影した写真をお持ちだそうです。

前回紹介した新栄稲荷の碑文(ひぶん)に見える「小金井得又(こがねいとくゆう)」の名は、大口(おおぐち)の七島不動尊(ななしまふどうそん)の入り口へ大正11年(1922年)に建てた「成田山水行堂」の門柱(もんちゅう)にもその名が刻まれています。この頃、横浜新栄講と行者達は、熱心な布教活動を行っていたものと思われます。その成果の1つが菊名水行場でした。しかし、大正12年9月1日の関東大震災により、横浜別院と水行堂は大きな被害を受け、以後はその再建活動に追われることになったようです。

では、菊名の水行場へ行ってみましょう。まず旧綱島街道から、道路際に流れる用水路に架かった橋を渡ります。すると大きな御影石(みかげいし)の石段が13段あります。その両側にはゴツゴツしたぼく石が積み上げてあり、上には大きな狛犬(こまいぬ、獅子)が乗っていました。「成田山新栄講」と彫られた円柱の門を入ると、正面にまた石段があり、その上には新栄稲荷神社が祀られています。門を入って左手に曲がると広い庭と大きな池がありました。庭には大きな石碑が3基ありました。後年、マンションを建てるとき2基を取り壊し、残った1基を神社の脇に移しました。これが現存する石碑です。加藤正子さんは、壊した石碑の1つに、大正3年(1914年)の年記があったのを記憶しておられます。

庭の突き当たりに大きな平屋の屋敷がありました。野毛山の水行堂と似たような造りの建物でした。正面がお不動さんを祀る本堂、その右手が行場でした。本堂は護摩(ごま)を焚くので壁が真っ黒でした。本堂の左手と裏には10畳敷きの部屋が9部屋ありました。屋敷は行者家族の住まいを兼ねていました。行場は10~15畳程の広さで、大きくて深い井戸がありました。井戸の脇には、丸い風呂桶(ふろおけ)のような大きな木の桶があり、そこに井戸水を貯めていました。水行をする人は、この桶の周りに並んで座り、片手桶に水を汲んで被(かぶ)ったのです。水行というと、つい滝に打たれることを連想しますが、成田山でも野毛山でも、ここ菊名でも、滝はなくて、井戸水を被ったのです。

武田信治さん所蔵の「成田山諸経帳(なりたさんしょきょうちょう)」は、丁寧に手書きしたもので、お不動さんの朱印が多数押印されています。おそらくは、武田貞太郎(ていたろう)さんが修行の中で少しずつ写経をして、その都度ハンコを押してもらっていたようです。

水行場は当初から多くの参拝者や修行の人で賑わいましたが、女性の修行者は3名だけだったそうです。その中の一人(篠原生まれの金子トメさん)が後に得又(とくゆう)行者と結婚し、春子さんと妹の正子さんが生まれます。得又行者は、昭和26年(1951年)に62歳で亡くなりました。その前2年程は病(やまい)に臥(ふ)せっていましたから、水行が行われていたのは昭和23、24年頃までのようです。得又の死後活動は一時中断しますが、数年して長女の加藤春子さんが跡を継ぎ先達となり、「幸春(こうしゅん)」と名乗り活動します。しかし、水行は行いませんでした。

昭和34年(1959年)12月、講社「菊名新栄講」が結成され成田山に登録されます。初代得又の頃は横浜新栄講として活動していたようです(前回の記事を一部訂正します)。菊名新栄講では、毎年5月第1日曜日に成田山まで参詣に行っていました。当初は電車で、後にはバスを連ねて行きました。最盛期にはバス5台が満席になりました。しかし、2代目幸春さんも平成元年(1989年)に亡くなり、菊名新栄講は活動を休止したのです。

次回は、菊名池で吟行します。  

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)

(2007年6月号)

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