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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第103回 武蔵野探勝 -菊名で吟行-

2007.07.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


十日市場の相澤雅雄(あいざわまさお)さんから、高浜虚子(たかはまきょし)編『武蔵野探勝(むさしのたんしょう)』(甲鳥書林、1942年)をいただきました。この本には、菊名池の辺りで催された探勝会(句会)の記録が載せられています。港北区域の資料としては、これまでに使われたことがないようですので、相澤さんに代わって、御紹介しましょう。相澤さんは、『タウンニュース』緑区版で、間もなく100周年を迎える横浜線の歴史について連載を始めておられます。港北区では入手困難ですが、必読です。

高浜虚子と、虚子が主宰(しゅさい)した俳句雑誌『ホトトギス』の同人たちは、昭和5年から14年(1930~39年)にかけて、100回にわたり武蔵野を散策し、俳句を詠(よ)みました。『武蔵野探勝』はその成果をまとめたものです。会のメンバーが菊名池を訪れたのは、第69回、昭和11年(1936年)4月5日のことです。幹事の安田蚊杖(やすだぶんじょう)が記録を担当しています。詠まれた俳句から数えると、この日の参加者は26名、残念ながら高浜虚子は不参加だったようです。

さて、安田蚊杖は、菊名は「大きな池もあれば、木も多い、南傾斜の山を控えたところだ」(旧仮名遣いを訂正しました、以下同様)という話だけを頼りに、事前の準備もなくふらりと菊名駅に降り立ちます。

「うらゝかや 藁屋(わらや)直して 喫茶店」参加者の一人、富安風生(とみやすふうせい)の句です。菊名駅前でしょうか、調べたのですが、確認できませんでした。蚊杖(ぶんじょう)は、道を尋ねながら、菊名駅から綱島街道の旧道に沿って妙蓮寺駅(みょうれんじえき)近くの菊名池まで歩きました。菊名は、「半ば拓(ひら)けた分譲地帯」であり、「分譲地に山の切り拓(ひら)かれてゆくのが見えるのは淋しい」と感想を記しています。分譲地とは、東急が錦が丘(にしきがおか)一帯を開発していた菊名分譲地のことです。

菊名池では、ボート屋が営業していました。当時としては「一寸(ちょっと)しゃれている」風景です。「ボート漕(こ)ぐ 春のショールを かけ流し」富安風生(とみやすふうせい)はこのように詠(よ)みましたが、蚊杖(ぶんじょう)は「池の岸が桶(おけ)の縁(ふち)のようになっていたり、コンクリートの橋が歴然(れきぜん)としていたり、木らしい木とて見あたらない」様子にがっかりしています。コンクリートの橋は、完成間もない菊名橋です。東急の「沿線案内」には、「水面一万二千坪、ボート数十隻、池の周囲に遊歩道、遊園施設があります」と書かれています。ヒョウタン型をした菊名池が埋め立てられて、小さな池とプールになるのは、昭和48年(1973)のことです。ボートと菊名橋は、その時まで菊名池の名物でした。

池のほとりでは句会の会場にふさわしい建物が見あたらず、「村の青年会の幹部の思いがけぬ好意」によって、妙蓮寺(みょうれんじ)の書院を借りることになります。妙蓮寺は、「門を入るなり両側に大きな桜の並木があって、その樹下(じゅか)には床几(しょうぎ)が配して」あり、「左に方丈(ほうじょう)、右に墓所(ぼしょ)、何れも籬(かき)がくれになっていて、つき当りの小高い丘に仏殿があり、そのうしろの丘陵(きゅうりょう)には柏(かしわ)が茂り、又(また)芽のほぐれかかった雑木(ぞうき)が交叉(こうさ)して」いました。赤星水竹居(あかぼしすいちくきょ)は、寺の様子を「観音の 像ある離れ 木の芽寺(このめでら)」と詠(よ)んでいます。好天と地域の人々の厚情により、会は成功裏に終わりました。

安田蚊杖等がしたように、景色の良いところや名所旧跡へ出かけて詩歌を詠むことを「吟行(ぎんこう)」といいます。「吟行」が俳句の作句法として確立されたのは、この『武蔵野探勝』によるといわれています。文学史の画期となる出来事でした。高浜虚子等の足跡を、1984年から93年にかけて100回全てたどり直して吟行したグループがいます。野村久雄編『新武蔵野探勝』(籐椅子会、1993年)がその記録です。両著を読み比べると興味深いです。

港北区域では、菊名池の外に、小机泉谷寺(せんこくじ)にも来ています。それについてはまた別の回で御紹介しましょう。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)

(2007年7月号)

参加者

  1. 蚊杖..................安田蚊杖(幹事)(やすだぶんじょう)
  2. 越央子(越央子さん)......大橋越央子(おおはしえつおうし)
  3. 風生..................富安風生(とみやすふうせい)
  4. 素十(新潟の素十)......高野素十(たかのすじゅう)
  5. 今夜..................
  6. 椎花(椎花翁)......麻田椎花(あさだすいか)
  7. あふひ(あふひさん)......本田あふひ(ほんだあうい)
  8. 水竹居(水竹居翁)......赤星水竹居(あかぼしすいちくきょ)
  9. 東子房............市川東子房
  10. 夢香............柏崎夢香(かしわざきむこう)
  11. 韮城............遠藤韮城
  12. 花蓑............鈴木花蓑(すずきはなみの)
  13. 五郎............
  14. つる............
  15. 奈王............片岡奈王(かたおかなおう)
  16. 眉峰(朝鮮の眉峰)......佐藤眉峰(さとうびほう)か
  17. 白山............浅野白山
  18. 凡秋............加賀谷凡秋(かがやぼんしゅう)
  19. 拓水............小林拓水
  20. 霞人............奥村霞人(おくむらかじん)か
  21. 蓬矢............矢野蓬矢か
  22. 未曽二............宇津木未曾二
  23. 喜太郎............真下喜太郎(ましたきたろう)
  24. 除夜子............
  25. 藤羽............
  26. まさを............
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