第108回 消える鶴見川氾濫の爪跡-住居表示の実施と町区域の変更-
- 2007.12.01
文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
11月19日より、太尾町(ふとおちょう)の一部に住居表示が実施され、大倉山一丁目から三丁目が誕生しました。大倉山の名前の由来について第42回、それ以前の地名である「観音山」については第70回で説明しています。
日本では、明治時代から「地番(ちばん、土地登記簿に付された土地一筆ごと番号)」を使って住所を表していましたが、昭和37年(1962年)に施行(しこう)された住居表示に関する法律により、建物の場所を表す番号を新たに付けて住所を示すようになりました。港北区域でも住居表示の導入が進みつつあり、全95町の内で太尾町は80番目の実施となりました。太尾町は範囲が広いので、三年計画で、平成21年度までに全域で実施することになっています。
今回の住居表示の実施では、同時に行われた町名変更に関心が集まりましたが、実はもう一つ重要な決定がなされています。町区域の変更です。鶴見川を挟んで、新羽町(にっぱちょう)との間で、区域を変更して飛び地が解消されることが決まりました。実施は平成21年度です。
飛び地の発生には二つの原因があります。かつて鶴見川は頻繁(ひんぱん)に氾濫(はんらん)を繰り返す暴れ川でした。大きな氾濫が起きると、流路が変わることもありました。川沿いの村では、流路が変わって、村の一部が川の対岸になってしまうことがありました。これが第一の原因です。
やがて江戸時代後期になると、築堤(ちくてい)技術が進歩して、堅牢(けんろう)で高い堤防が作られるようになっていきます。鶴見川では、昭和13年の大水害第66回参照)以降、国費による大規模な河川改修が進められ、氾濫はしだいに起きなくなりました。しかし、今度は河川改修で曲がりくねっていた流路をまっすぐに直すことにより、一部の土地が人為的に対岸に取り残されることになりました。これが第二の原因です。
詳細な地図を見ると、新羽橋(にっぱばし)附近の太尾町側に新羽町の飛び地があることが分かります。逆に太尾見晴らしの丘公園の対岸の新吉田東七丁目にも太尾町の土地がありましたが、こちらは平成17年10月31日に解消されました。これらは、鶴見川がこの辺りで大きく蛇行(だこう)していたのを、昭和22年から27年にかけて河川改修をして、流路をまっすぐに変えた名残(なごり)です。太尾小学校が開校した頃(昭和51年)、陸続きになった新羽町の一部に住んでいた児童は、太尾小学校に通っていました。昭和53年に、飛び地の大部分を区域変更していますので、その残りが今回解消されるわけです。
さて、太尾町は、文字で書くと「たおちょう」と読まれ、発音すると「埠頭町」と間違われてきました。しかし、「太尾」という地名は、室町時代初期の史料にも記されていますし、「太尾」の語源は、かつてこの辺りが海岸線だった頃に、海岸から突き出た岬(みさき)の地形が動物の太い尾のような形をしていたことから名付けられたといわれています。そうであるならば、縄文時代にまでさかのぼるような長く続いた地名であると思われます。太尾の地名や飛び地があったことは、後世に伝えていきたい大切な記憶です。
港北区域の町名で、太尾町以上に難読でありながら全国的に非常に有名な町があります。大豆戸町(まめどちょう)と師岡町(もろおかちょう)です。なんと、日本中で使われている『郵便番号簿』の難読地名の表記法の凡例に示されているのです。これから年賀状書きのシーズンです。気になる方は、ぜひ一度『郵便番号簿』を確かめてみてください。
太尾町の住居表示の実施・町名変更・町区域の変更については、平成17年の発端から告示に至る詳細な経緯が市役所のホームページで公開されています。大豆戸・師岡の両町を含めて区内15町ではまだ住居表示が実施されていません。これらの地域の方々は今後のためにぜひ御覧になってください。
記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)
(2007年12月号)