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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第109回 餅搗の声張り合ふや両隣(もちつきのこえはりあうやりょうどなり) -大綱村の餅つき-

2008.01.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


あけましておめでとうございます。皆さん、おこたに雑煮(ぞうに)、ミカンでお正月をお迎えでしょうか。しかし、餅(もち)は市販品で済ませ、年末の餅搗き(もちつき)をしなくなった家庭が多いことしょう。昔の餅搗きについて、綱島東の池谷光朗さん(いけのやみつろう、大正14年生まれ第15回第30回参照)からお話を伺いました。

「私が覚えているのは、昔は米1俵も2俵も搗(つ)いたから、暮れになるとお餅を搗くのに、みんなわざわざ大綱橋(おおつなばし)のたもとの河岸(かし)へ行って、鶴見川の水で米を洗っていた。水道がなかったから。水道は昭和5、6年(1930、31年)頃になってからで、その前は井戸水だった。河岸へ行くと、みんな桶(おけ)を持ってきていた。」

昔の大綱橋は、現在の橋の少し下流側にあり、橋のたもとには鶴見川を運航する船の船着き場がありました。当時は鶴見川の水も炊事(すいじ)に使えるほどきれいだったのです。

餅(もち)は、かつては貴重な保存食で、年末以外に、大寒(だいかん、今年は1月21日からです)にも餅を搗きました。これを寒餅(かんもち)といいます。表題は、大正12年(1923年)2月20日付けの『大綱時報』第93回参照)に掲載された俳句です。誰の句か分かりませんが、竈(かまど)の煙、もち米の香りがする蒸気、人々の活気などが伝わって来るようです。ペンネーム「兎耳生(とじせい)」氏は、この句に続けて、大綱村の餅搗きについて興味深い投稿をしています。以下に紹介しましょう。

本村(大綱村)における餅搗きは、その石数(こくすう)の多き事、県下に例なしとまで評さるる程なり。もちろんこれには労力の関係等ありて、小昼飯(こびるめし、おやつのこと)の糧(かて)として、水餅(みずもち)となし、約半年以上の蓄(たくわ)えあり。多きは10俵、少なきも6斗(ろくと)を搗く。もっともこれは農家を指しての事なり。(1軒で)平均2俵を搗くものとすれば(村中で)1,000俵以上にして、1俵12円とすれば12,000円に当たる。一村内にて南綱島、樽(たる)方面が一番多く、次は篠原(しのはら)、防ヶ谷(ぼうがやと、坊街道ヵ)方面とし、少なきは白幡(しらはた)方面にして、その他は大体甲乙なし。餅搗きの方法も、「掛け搗(かけつき)」と称して、二人で搗くことはズット以前より綱島方面では実行していたが、段々南進して、今では菊名方面に迄(まで)及んでいるが、篠原、白幡方面はまだ一人搗きである。最初の餅ねりも、綱島方面では三本杵で搗く所もあるが、太尾以南は手杵(てぎね)で三人五人位でねる所もあるそうである。 (少し読みやすく直しました)

1俵は60㎏ですから、たくさん餅搗きをする家ではなんと600㎏ものもち米を搗いたのです。当時は大家族ですが、それにしても想像を絶する程の量です。最近のもち米は1㎏が600円位でしょうか、そうすると1俵分は36,000円になりますから、大正12年当時1俵12円ということは、物価が3,000分の1ということになります。

神奈川県下で最もたくさん餅搗きをする大綱村、その中でも南綱島と樽が一番多く搗いていたようです。かつては「モチ無し正月」(第61回参照)の風習があった篠原でも、寒餅(かんもち)はたくさん搗いていたようです。餅の搗き方に流行があったというのも面白い話ですし、寒餅搗きは楽しいイベントでもあったのでしょう。

こうして搗いた餅は、午後のおやつとして半年以上にわたって食べられました。最も寒くてカビの生えにくい大寒を選んで搗いても、そのままにしておくとすぐにカビが生えてしまいます。今なら簡単に冷凍保存出来ますが、昔は欠き餅(かきもち)や水餅(みずもち)にして保存しました。水餅とは、搗いた餅を、水を張った樽の中に漬けておくもので、1週間に1度くらい水をかえていると腐らなかったようです。『港北百話』によると、何ヶ月もすると臭いがきつくなって閉口したとか、日吉では塩水に漬けておき、塩出しをして食べたので搗き立て同様だったという話が載っています。余談ですが、以前はモチのカビは食べても大丈夫だといわれていましたが、食べない方が良いようです。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)

(2008年1月号)

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