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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第110回 綱島温泉のお湯商売

2008.02.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


寒い時にはゆっくり温泉につかって暖まりたいところですが、昨年11月に、綱島温泉の「浜京(はまきょう)」が平成20年3月15日で閉館になるとの報道がありました。残念なことです。

綱島温泉については以前に書きましたが(第62~65回参照)、「浜京」は、宿泊できる温泉施設としては綱島に残された最後の1軒です。そこでふと疑問に思ったのは、浜京は横浜市立学校教職員互助会の保養所ですが、民間の温泉宿として最後まで営業していたところはどこなのでしょうか。答えは、14年前の平成6年(1994年)2月に廃業した温泉旅館・水明(すいめい)です。ちなみに、最初に開業した温泉宿は、大正6年(1917年)樽(たる)で営業を始めた永命館(えいめいかん)です。

この綱島温泉ですが、地元で入浴に供される他に、鶴見方面へ運んで売られたこともありました。

『港北百話』には、「水の効き目を伝え聞いた鶴見などの風呂屋へも、ひとだる(4斗樽ヵ)に入れられリヤカーに積んで送られた」と記されています。『大曽根の歴史』には、「樽村の小島孝次郎さんは、井戸からわき出た水を引いて、湯治場(とうじば)を作ったり、鶴見川を利用して、三日に一度舟にラジュウムの水を積んで、鶴見方面の銭湯に運んだりしました。この水の薬効が知れわたった大正6年、井戸からラジュウムの水を引いて、樽村に永命館という旅館が建ちました」と記されています。『港北区史』には、「鉱水(こうすい)をリヤカーで綱島河岸(つなしまがし)まで運び、さらに舟に積んで鶴見方面の風呂屋へ一荷十銭(いっかじゅっせん)で送っていた」と記されています。

汲み上げた温泉水を別の場所へ運んで入浴に供することを「汲湯温泉(くみゆおんせん)」といいますが、これらの資料を読むと、樽村の小島孝次郎が汲湯温泉を始めたように読めます。しかし、「ラヂウム霊泉湧出記念碑(れいせいゆうしゅつきねんひ)」には、小島孝次郎は温泉旅館元祖であり、汲湯温泉開拓者は福澤徳太郎(ふくざわとくたろう)・田中友太郎(たなかともたろう)と刻まれています。福澤と田中が始めた汲湯温泉に小島孝次郎も参加して、この小島が後に永命館を開業することになったと思われます。

資料からは、温泉水を鶴見方面へ運んでいたのは地元に旅館が建ち始める以前、ホンの一時期のように読めますが、綱島東の池谷光朗(いけのやみつろう)さんから次のような話を伺いました。

ラジウム温泉の記念碑の処に「杵屋(きねや)」という店があり、あそこで、温泉を汲み上げて、リヤカーを鉄板で囲って温泉を入れて、船のところまで持ってきて、樋(とい)を通して積んで、鶴見の方へ持って行って商売をしていました。リヤカーで何回も運ぶのでしょうね。小学生の頃によく見ました。

池谷光朗さんは大正14年(1925年)生まれですから、昭和10年(1935年)前後頃のことでしょう。東横線が開通し、温泉旅館が増えてからも温泉水を売っていたことが分かります。水が漏れないように、リヤカーを鉄板で囲っていたということですから、私はてっきり舟も同様にしていたのかと思いましたが、舟は元々水が漏れないように造られていますから、鉄板で囲わなくても平気です。伺ってみればあたりまえの話でした。

ではこの温泉水をどうやって舟から陸揚げして運んだのでしょうか。池谷さんは、「川は低いから、天秤棒(てんびんぼう)で担いで揚げたのかな」と想像されていましたが、さすがにそこまでは御存じありませんでした。さらに、鶴見のどこの銭湯へ運んだのでしょうか。謎はまだ解けません。鶴見側での資料調査や聞き取りが必要のようです。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)

(2008年2月号)

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