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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第114回 12年に一度の霊場巡り -その3-

2008.06.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


2番札所 三会寺(さんねじ)
御詠歌(ごえいか) むかしたの はなとりやまの かんぜおん いまもりしょうは たへずありけり

「はなとりやま」とは、「鼻取り」と「鳥山」の掛詞(かけことば)です。鳥山町三会寺の十一面観音は、別名を「鼻取(はなとり)観音」といいます。そのいわれは、むかしむかし観音が子供の姿になって現れ、水田を耕す馬の鼻を取り農耕を助けたという伝説によります。行基(ぎょうき)作と伝えられ、最初は奈良の大安寺(だいあんじ)に安置されていましたが、貞観(じょうがん)8年(866年)に大安寺の沙門(しゃもん)行敬(ぎょうけい)が鳥山の地に遷座(せんざ)させたといいます。今年、本堂の西側に新しい観音堂が作られ、3月30日に落慶法要が営まれました。新たに作られた丈六(じょうろく)(約4.8m)の十一面観音坐像は松本明慶(みょうけい)仏師の作です。

12番札所 歓成院(かんじょういん)
御詠歌 ふとをにて つよきだいじの みょうちりき いかなるをもき つみもすくわん

大倉山二丁目(元は太尾町(ふとおちょう))の妙智山(みょうちさん)歓成院は、永禄(えいろく)3年(1560年)善通法印が創建した寺ですが、安政(あんせい)3年(1856年)に本堂を焼失しました。飛び地にあった観音堂(第70回参照)を、明治になり境内へ移し、運慶作と伝えられる十一面観音坐像を本尊としました。

13番札所 円応寺(えんのうじ)
御詠歌 ねがひよし たもとものりの すみぞめの みには大悲(だいひ)の かげやうつらん

新吉田の円応寺は、等身大の千手(せんじゅ)観音立像(りゅうぞう)が本尊です。お寺の創建は不詳ですが、正保(しょうほう)4年(1644年)の墓石や、元禄13年(1700年)に本尊の修復をした記録があるそうです。円応寺から正福寺までの道のりは曲がりくねって分かりにくいのですが、お寺で写真入りの案内図をいただき、迷わずに歩けました。

14番札所 正福寺(しょうふくじ)の御霊堂(ごりょうどう)
御詠歌 もののふの ねがひもみつる 御霊堂(ごりょうどう) あだもしりぞく ちかひなるらん

「もののふ」とは、武士のことです。平安時代後期の有名な武将である鎌倉権五郎景政(かげまさ)は、後三年(ごさんねん)の役(えき)(1083~87年)で負傷し、新吉田の地で没したといわれています。正福寺の住職が景政の持仏(じぶつ)十一面観音を御霊堂に祀(まつ)り、菩提を弔(とむら)ったことが始まりとされています。

15番札所 西方寺(さいほうじ)
御詠歌 ふだらくに またごくらくの さいほうじ みだかんのんの じょうどなりけり

「みだ」とは、本尊の阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)を指します。新羽の補陀洛山(ふだらくさん)西方寺は、鎌倉の極楽寺の塔頭(たっちゅう)でしたが、室町時代に鶴見川を船で上り新羽の地へ移築しました。十一面観音は平安時代の作で、西方寺移築の以前より新羽の地で祀(まつ)られていたもので、安産の守りとして有名です。平成15年度より始めた本堂の解体修理により、建物は享保(きょうほう)6年(1721年)の建築であったことが分かりました。5月17日に落慶(らっけい)記念式が行われ、記念誌が刊行されました。

16番札所 専念寺(せんねんじ)
御詠歌 たづねくる 寺は南の専念寺 大慈(だいじ)大悲(だいひ)の ちかひしるべに

南新羽の専念寺は、小机泉谷寺の第6世本誉耕公和尚が天正(てんしょう)12年(1584年)に創建した寺です。本堂左手の坂を上ったところにある観音堂は、昭和58年(1983年)に開創400年記念として建設されたものです。

今回の子年(ねどし)観音御開帳は終了しましたが、再来年は寅年(とらどし)薬師(やくし)、さらには酉年(とりどし)地蔵(じぞう)の御開帳があり、12年後にはまた子年観音の御開帳です。どこまで紹介できるでしょうか。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)

(2008年6月号)

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