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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第116回 消えた鐘の音 -終戦秘話その11-

2008.08.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


最近、金属類の価格が高騰して門扉や車止めなどの盗難が相次いでいますが、アルミや銅・鉄以上にレアメタル(希少金属)の価格高騰は日本の産業界に大きな影響を及ぼしています。そのため、7月7日から9日まで横浜で開催された第4回アフリカ開発会議では、レアメタルなどの資源確保が重要な外交課題とされました。レアメタルは、廃棄された家電製品などからの資源回収も積極的に進められており、それらは都市鉱脈(都市鉱山)と呼ばれています。この都市鉱脈という言葉は、66年前に作られた「家庭鉱脈」という言葉が語源だと思われます。

日本は昔から資源輸入国でした。戦争により金属輸入に支障が出始めると、全国の家庭から銅や鉄など金属類の回収が必要になりました。政府は昭和13年(1938年)から回収を始めますが、当初は廃品等の不要不急品から始めて次第に強化していき、昭和16年(1941年)9月1日に金属類回収令が施行されました。政府は「回収」と呼び、民間の出す側は「供出」ともいいました。「家庭鉱脈」という言葉が生まれたのはこの頃のことです。

金属類回収の実態を大倉精神文化研究所に残されている資料から見てみましょう。日誌によると、研究所では昭和17年6月23日・12月8日、18年7月9日・9月28日、19年1月29日・2月3日・6月8日の7回も供出をしています。

金属類回収令による回収は、まず指定施設から始め各家庭に広げられました。大倉精神文化研究所も指定施設になっていました。最初の動きは、昭和16年12月10日に神奈川県庁金属回収機関へ譲渡申込書の提出をすることから始まりました。鉄製品として階段1個・シャンデリヤ27個・ロッカー6個・マンホール蓋13個など、真鍮製品としては階段辷止190メートルなどが書き上げられています。これらの品々を実際に供出したのは翌17年12月8日です。横浜市経済部が出した「民間金属類特別回収譲渡申込ニ就テ」という書類には、「此度国家ニ譲渡致サネバナラヌコトニ相成リマシタ」とか「指定物件ヲ隠匿シタリ移動シマスト罰セラレマス」などと書かれています。強制的に回収させられた訳ですが、無料で取り上げられたのではありません。階段やマンホール蓋等は指定業者の丸信商会が買い受け、17年12月8日に受領調書を発給しています。物によっては代替資材の配給を受けることも出来ました。

昭和18年7月、梵鐘1個と半鐘2箇の撤去工事が済み、横浜市金属回収係へ運搬の申請をしています。第82回で、昭和7年(1932年)秋に新吉田の滝嶋芳夫さんが聞いた鐘の音の話を書きましたが、建設当初の本館塔屋には西洋の音色のする鐘が吊り下げられていたようです。しかし、この鐘は、翌昭和8年に日本風の梵鐘(外径60㎝、重さ245㎏)に付け替えられ、7月13日から毎日午前5時、正午、午後3時、5時、9時に撞かれていました。昭和18年7月に半鐘2箇と共に供出されたのがこの鐘です。正確な回収日は不明ですが、425円75銭で鋳造した梵鐘は、昭和19年6月11日に240円の代金が支払われています。昨年夏、研究所図書館書庫の階段裏にある物置から、鐘2箇(外径36㎝と30㎝)が発見されました。大きさから見ると、梵鐘ではなく半鐘です。半鐘は、昭和8年と10年に購入した記録がありますが、それは梵鐘と共に供出されています。発見された半鐘は、戦後新たに購入したもののようです。

昭和18年9月28日、ホーク30本・ナイフ10本・大スプーン20本・小スプーン10本、便所紙巻取器(トイレットペーパーホルダー)などを港北区役所に持参しています(日誌)。階段スベリ止31㎏も持参したらしく、別の資料ではこの日に神奈川県非常回収工作隊鶴見港北班が引き取り、東京浅草の金属回収統制株式会社が買い受けています。その譲渡代金は、昭和19年5月19日になって60円45銭が神奈川県金属決戦回収工作隊本部より支払われました。

ちなみに、『とうよこ沿線』45号(『わがまちの昔と今』第8巻に再録)には、大倉山2丁目の歓成院の梵鐘が昭和20年2月に供出される時の記念写真が掲載されています。

昭和19年は、1月29日と2月3日に回収金属の搬出をしています。19年6月8日の日誌の「金属回収、全部ノ作業ヲ終ル」が最後の記事です。しかし、何もかもすべて供出したわけではありません。県と戦時物資活用協会は、昭和18年度の「金属類非常回収に就て」というチラシの中で、「回収方法と回収物件の範囲」を詳細に定めています。研究所では、それに沿って該当物件の調査を行い、本館の外部扉16枚は鉄製であるが、「重要書籍其他研究資料ヲ保護ノ目的ヲ以テ耐震耐火建築物」となっており、回収除外に該当する旨を申し立てています。本館屋根を葺いている銅板は、この時の対象品に含まれていませんでした。鉄製の図書目録箱は、「出来得レバ其侭保存」したいと考えていましたが、「供出スルコトトナル傾向強シ」と予測していました。幸いに扉も屋根板も目録箱も供出を免れ、現存しています。

  • 【付記】 東横学園大倉山高等学校は本年3月でその歴史に幕を閉じ、東横学園高等学校に統合されましたが、先日、記念誌『大倉山五十年史』が刊行されました。学校の歴史と関係者の想いが凝縮された本です。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)

(2008年8月号)

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