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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第131回 幻の東京オリンピック横浜会場

2009.11.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北2』(『わがまち港北』出版グループ、2014年4月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


10月3日、2016年の第31回オリンピック開催地の選定で、東京は落選し、二度目の東京オリンピックは幻となりました。今回は落選ですが、実はかつて一度、東京は当選したのに辞退したことがあります。

近代オリンピックは、1896年アテネで第1回大会が開催されました。第12回大会は、昭和15年(1940年)に東京で開催する予定でした。発端は昭和5年(1930年)、時の東京市長永田秀次郎(ながたひでじろう)が、第12回が開催される昭和15年はちょうど皇紀2600年(日本の国が出来て2600年目とする説)に当たるので、これを東京で開催したいと言い出したことに始まります。IOC(国際オリンピック委員会)委員だった嘉納治五郎(かのうじごろう)(講道館柔道創始者)の世界を駆け回る招致(しょうち)活動により、昭和11年(1936年)に東京での開催が決まります。あまり知られてはいませんが、この頃冬季オリンピックは夏季と同じ年に開催されており、この時、昭和15年の第5回冬季大会を札幌(さっぽろ)で開催することも決まっています。

しかし、翌昭和12年、盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)をきっかけとして日中戦争が始まると、国家総動員の風潮の中、鉄材等の資材不足もあり、大会返上の意見が出始めます。昭和13年5月には、東京大会実施のために尽力していた嘉納治五郎が、IOC総会からの帰途、氷川丸(ひかわまる)船上で客死(かくし)します。その2か月後、ついに開催辞退が決まります。余談ですが、嘉納治五郎の葬儀委員の中には、大倉精神文化研究所の創設者大倉邦彦も加わっていました。

今回の東京オリンピック案は、狭い範囲内に会場を集めて「世界一コンパクトな大会」をアピールしていましたが、昭和13年にIOCへ提出した計画書を見ると、会場は埼玉や横浜にも予定されていました。横浜はヨット会場やマラソンの折り返し地点(鶴見の総持寺(つるみのそうじじ)辺)になっていました。

しかし、それとは別に、興味深い話があります。現在の岸根公園の場所をオリンピック会場に計画していたという話と、鶴見川下流でボートやカヌー競技をするという計画です。私にはこの話の根拠が思い出せないのですが、樽町(たるまち)の吉川英男さんや篠原町の臼井義幸さんも何かの資料で読んだことがあると言われるので、噂があったことは確かなようです。真偽は不明ですが、会場の候補地については、最終案に決まるまで紆余曲折(うよきょくせつ)がありましたから、その過程でこのような案があったのかも知れません。

菊名の椎橋(しいはし)信一郎さんは旧綱島街道沿いに住んでおられますが、椎橋さんからは、東京オリンピックに合わせて旧綱島街道を2倍に拡幅する計画があったという話を伺った事があります。旧綱島街道で思い出したのですが、篠原町の押尾寅松さんもかつて沿道にお住まいでした。押尾さんからは、大倉精神文化研究所本館(大倉山記念館)を建設していた時(昭和5、6年頃か)、建設資材を積んだトラックが毎夜何台も街道を通ったこと、未舗装のデコボコ道を重いトラックが走るので、家が揺れて、寝ていても目が覚めたとの話を伺った事があります。昼間は、大八車(だいはちぐるま)や牛車(うしぐるま)、馬などが通っているので、トラックは夜に走ったようです。

閑話休題、開催が実現した東京オリンピックは、昭和39年(1964年)の第18回大会です。この時神奈川県では、バレーボールの横浜文化体育館、サッカーの三ツ沢球技場など4ヵ所が会場になりました。この東京オリンピックに合わせて、交通網の整備が図られ、首都高や新幹線が開通します。新幹線は、川崎市中原区から慶応大学日吉キャンパスの地下、樽町を通り、新横浜駅に停車しますが、下田町(しもだちょう)の金子郁夫(かねこいくお)さんからは、「現在のルートより少し北側、下田町を通りS字型に湾曲(わんきょく)したルートで新幹線を通すという計画があった」という話を伺いました。

実現しなかった幻の計画は、関係資料が少なく、人々の記憶からも忘れ去られていきます。今となっては、詳細を確認できないことも多いのですが、今後の調査のために記録しておきます。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)

(2009年11月号)

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