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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第143回 後日談いろいろ -その2-

2010.11.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北2』(『わがまち港北』出版グループ、2014年4月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


前回の原稿で、高野平(たかのたいら)氏が学校用地の選定に際して「綱島の飯田助丸(いいだすけまる)代議士を紹介」してもらったとの回想を紹介しましたが、十日市場町の相澤雅雄さんより、これは飯田助夫(すけお)代議士の記憶違いではないかとの指摘をいただきました。相澤さんからのメールには、「飯田助夫が三宅磐(みやけいわお)の地盤を継いで民政党衆議院議員に立候補し当選したのが昭和11年(1936)57歳の時です。飯田助丸が県会議員に当選したのは、昭和22年です。昭和4年3月に東京農大卒後、神奈川県に奉職し、同18年に横須賀市に奉職しています」とありました。

ご指摘の通りでした。飯田助丸の父親である助夫は、昭和14年(1939年)当時は60歳であり、衆議院議員をしていました。助丸は、当時32歳で神奈川県の職員でした。助丸は、戦後になり市議会議員、県会議員になりますが、衆議院議員にはなっていません。「代議士」とは、たいていは衆議院議員の別称として使われる言葉ですから、やはり、助丸は助夫の誤りと思われます。

そこでこれを機会に、第120回に続いて、いくつか加筆訂正をしておきます。

第128回で、戦時中の山塩(岩塩)の配給を書きましたが、篠原町(しのはらちょう)の臼井義常(うすいよしつね)さんから、これは牛の餌ではなく工業用だろうと教わりました。岩塩は赤い石のような形をしており、ガラス製造に使うために中国から輸入していたとのことです。

第130回で紹介した『自治行政大観』は、小田原市の林宏美(はやしひろみ)さんからさらに別の本をご紹介いただきました。

  1. 『昭和改新 現代人名辞典』昭和31年、帝国連合通信社
  2. 『自治行政大観』昭和44年、地方自治調査会
  3. 『自治産業大観』昭和52年、地方自治調査会

①には港北区内の建設業関係者6名が掲載されています。③には、菊名蓮勝寺(れんしょうじ)の柴田敏夫住職、新羽西方寺(にっぱさいほうじ)の伊藤履道(りどう)住職らが掲載されており、当人の経歴に加えて、お寺の由緒も紹介されています。伊藤履道住職は、昭和11年4月から21年3月まで大綱小学校で教員をしており、「げんこつ和尚」として有名な先生でした。そのことを、短歌雑誌『沙羅』(さら・沙羅短歌会、平成22年5月号)に「げんこつ和尚と人名辞典」と題して書きましたので、興味のある方は、横浜市中央図書館で御覧ください。

同じく第130回で紹介した苗のガラスカバーですが、臼井義常さんのご教示によると、通常は苗の周りに竹串を4本立て、それに紙を貼って筒状にして(上部は太陽光を取り入れるため空けてある)冷たい風を防いだとのことです。その紙は、障子紙(しょうじがみ)を買ってきて、それへ、番傘(ばんがさ)作りに使う荏油(えのあぶら)(エゴマの油)を塗って防水したものを手作りして使ったとのことです。

第140回で紹介した町探検の教科書は、教育出版の『小学社会3・4上』で、先日見本本が届きました。大綱小学校(おおつなしょうがっこう・名前は出ていませんが)の生徒が町探検をするという設定で、大倉山や港北区、横浜市のことが書かれています。来年4月から全国の小学校の3割弱がこの本を使用するとのことです。

第141回で、記念碑の文章を書いた平本由五郎(ひらもとよしごろう)は、土岐武(ときたけし)さんから瀬谷区の小学校の先生と聞いていましたが、確認が取れなくて書けませんでした。新吉田東の小股昭(こまたあきら)さんが教員に間違いないことを教えてくださいました。同じく、小机の石工(いしく)鈴木仙吉については、大豆戸町(まめどちょう)の鈴木智恵子さんから、祖父で鈴木石材店の創業者だと教えていただきました。

皆様からのご教示に感謝しつつ、加筆訂正させていただきます。これからもよろしくお願いいたします。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所研究部長)

(2010年11月号)

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