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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第15回 日月桃の昨日今日-綱島の桃-

2000.03.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


ここ数カ月間、子供にせがまれて毎晩寝るときに桃太郎の話をさせられています。桃には魔よけの力があると考えられており、鬼退治の話の背景にはこうした信仰があったと考えられています。

さて、3月3日は桃の節供(せっく、節句)ですが、節供とは中国伝来の行事で、季節の変わり目に神に供御(くご、飲食物)を供(そな)えて身体の安泰を祈る信仰でした。後に五節供となりますが、三月は、かつては「上巳(じょうし)」といい、三月の最初の巳(み)の日でした。それが大宝(たいほう)元年(701)より、3月3日に決まりました。この日は、罪や穢(けがれ)を取り除くための禊(みそぎ)や祓(はらえ)をする日で、人形(ひとがた、形代(かたしろ))に自分の罪を付けて水辺に流しました。この人形(ひとがた)と幼女の遊ぶ人形(にんぎょう)が結びついて雛人形(ひなにんぎょう)になり、雛祭りとなりました。また、上巳の行事に桃の呪力(じゅりょく)が結びついて、桃の節供となりました。

桃は、中国が原産で、日本には奈良時代初頭に渡来したといわれています。果樹として栽培されるようになったのは江戸時代からで、当時は小さくて堅い種類でした。明治初年に欧州系や中国水蜜桃(すいみつとう)系の品種が導入され、現在の栽培品種へと改良されていきました。そうした品種の一つに、「日月桃(じつげつとう)」があります。

日月桃は、綱島の池谷道太郎(いけのやみちたろう)氏が、明治40年(1907)に西洋桃の研究から発見した品種で、病害に強い早生(わせ)品種でした。

周囲を川に囲まれた綱島は、水害が多く、農家の人々は長年苦しい生活を強いられていました。そこで、池谷道太郎氏は、水害に比較的強く、砂質土壌の綱島での栽培に適している作物として桃の栽培を始め、この日月桃の苗木を皆に分けて栽培を始め、「綱島の桃」として大成功をおさめました。大正11年(1922)の東京博覧会を始めとして、各地の品評会で多くの賞を取り、銀座の千疋屋(せんびきや)や新宿高野(たかの)などでも販売され「東の神奈川、西の岡山」といわれるほどの特産品になりました。

しかし、昭和13年(1938)の鶴見川の大水害で壊滅的被害を受けた上に、戦争の時代となり、食糧増産のため桃畑は農地になってしまいました。こうして、「綱島の桃」は歴史の一齣(ひとこま)になってしまいましたが、池谷道太郎氏の孫の光朗(みつろう)氏は、現在でも日月桃の伝統を伝えて、自宅前の畑で約50本の桃を栽培しています。大綱橋の近く、ピーチゴルフのネットが目印です。今年もきれいな花を咲かせることでしょう。また、綱島では現在でも桃にちなんだ名前をあちこちで見付けられます。一度探してみませんか。

余談ですが、桃太郎の国で生まれた筆者には、岡山の清水白桃(しみずはくとう)が最高なのですが...。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)

(2000年3月号)

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