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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第154回 白瀬中尉と神部さん

2011.10.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北2』(『わがまち港北』出版グループ、2014年4月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


前回白瀬矗(しらせのぶ)中尉(ちゅうい)の話を書いたところ、いくつもの反響がありました。中でも、西尾市の三田(さんだ)さん、南区の増田さん、樽町(たるまち)の林さんたちから、興味深い情報を提供していただきましたので、ご紹介しましょう。

白瀬中尉は、昭和13年(1938年)9月から昭和16年(1941年)12月まで菊名に住んでいましたが、渡部(わたなべ)誠一郎著『晩年の白瀬中尉夫妻』によると、三男猛(たけし)の家に直接同居していたのではなく、猛が自宅の屋敷内に隠居所を建てて、そこに住んでいたとのことです。誰の目にも「中尉夫妻はこのまま菊名町の隠居所で生涯を全う」しそうに見えたようです。

この間、菊名の家で何度も取材を受けていて、『朝日新聞』だけでも、昭和14年(1939年)6月10日、同年12月9日、同年12月26日にインタビュー記事が掲載されています。

ところが、3年ほどすると、中尉のファンから提供された埼玉県片山村(現、新座市)の土地に家を建てて転居してしまいました。南極探検の本を出版した印税で家を建てたという説もありますが、菊名町の隠居所の売却代金を使ったようです。

前回、『とうよこ沿線』第19号で、白瀬中尉は家を神部(かんべ)老に売却したとの記事を紹介しましたが、この神部老とは、神部健之助氏です。昭和52年(1977年)2月17日付け『朝日新聞』によると、神部氏は白瀬中尉から2,600円で自宅を購入したと話しています。

神部氏は、その時に白瀬から、南極へ持って行った寝袋と短刀を「いつまでも大事に預かって下さい」と言われて贈られたと語っています。この短剣には興味深い逸話がありました。南極探検へ向かう途中の赤道付近で、嫌気がさした隊員が白瀬を殺して帰国しようと企てたことがあり、それ以来、探検が終わるまで、白瀬はこの短剣を肌身離さず持ち続けていたというのです。短剣を譲り受けた神部氏は、「私の宝物」として大切に保存していました。

神部氏へ自宅を売却しなければ、白瀬中尉は菊名で天寿を全うしていたのでしょうか。それは難しかったようです。菊名町に残った三男猛一家ですが、前掲『晩年の白瀬中尉夫妻』によると、終戦前に空襲で自宅を焼かれ、埼玉県片山村へ避難したと書かれています。

では終戦前とは何時(いつ)のことでしょうか。菊名方面が被害を受けた空襲としては、昭和20年(1945年)4月15日夜の空襲の記録があります。菊名の法隆寺や武相(ぶそう)中学富士塚校舎の辺りなどが被害を受けていますが、白瀬猛の家があった妙蓮寺(みょうれんじ)の裏山辺りの空襲被害は確認出来ませんでした。長年にわたり横浜の空襲被害を調査されている小野静枝さん(第140回参照)にも問い合わせましたが、分かりませんでした。ご存じの方は教えてください。

神部健之助氏は、寝袋と短刀以外にも様々なものを持っていたらしく、『横浜文化名鑑』に「現在拙宅(せったく)が白瀬中尉の旧宅であった。遺品や同氏の著書其(そ)の他関係文献多数と共に文化財としたい」と書いています。この『横浜文化名鑑』は、第1回横浜文化賞(第107回参照)の授賞式と時を同じくして、昭和28年(1953年)3月に横浜市教育委員会が刊行した本です。綱島出身の飯田九一(いいだくいち)の文章や、斎藤茂吉(さいとうもきち)の妙蓮寺来訪(第78回参照)に触れた飯岡幸吉(いいおかこうきち)の文章、師岡法華寺(もろおかほっけじ)の大般若経(だいはんにゃきょう)や小机城址(こづくえじょうし)のことを書いた石井光太郎(いしいみつたろう)の文章などが掲載されています。巻末には、「文化関係者名簿」として519名の名前と略歴等が掲載されています。昭和28年当時の港北区は、都筑区・青葉区・緑区を含む広大な区域でしたが、名簿に掲載された区民68名の内、64名は東横線沿線を中心とした現港北区域に集中しており、さらにその中でも篠原町(しのはらちょう)在住者が28名(42%)を占めています。神部健之助氏も名簿掲載者の1人でした。では、神部健之助氏とはどのような人物だったのでしょうか。その話は次回に。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所研究部長)

(2011年10月号)

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