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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第159回 失敗談 -もうひとつの『港北百話』-

2012.03.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北2』(『わがまち港北』出版グループ、2014年4月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


『楽・遊・学』の発行元である区民活動支援センターから連絡をいただき、2冊のファイルを拝見しました。『「古老を囲んで港北を語る」話合(はなしあい)記録及び8ミリ撮影箇所一覧』と、『「古老を囲んで港北を語る」編集委員会(No.2)』の2冊です。「古老を囲んで港北を語る」というのは、昭和48年(1973年)に飯泉安一(いいずみやすいち)港北区長の発案により、港北区老人クラブ連合会と港北区役所が主催した地域座談会です。その成果は、『港北百話』という本にまとめられ、昭和51年(1976年)3月に刊行されました。『港北百話』はこの連載でもよく引用していますが、2冊のファイルは、その座談会開催から本にまとめるまでの記録資料でした。手書きメモなどは判読できない部分もありますが、研究者にとっては、座談会の発言記録はそれぞれの発言者の名前と話した内容が分かるので、実は完成した本よりも貴重なのです。

このファイルを拝見したことで、少し以前に、「港北百話」という新聞連載を見たことを思い出しました。「横浜七福神」について調べていた時のことです。横浜市内には、横浜磯子(いそご)七福神(1918年成立、1978年再興)、横浜瀬谷(せや)八福神(1983年成立)、横浜金沢(かなざわ)七福神(2005年成立)、鶴見(つるみ)七福神(2011年成立)など様々な七福神・八福神があります。港北区内の七福神は昭和40年に(1965年)に誕生し、当初は「横浜港北七福神」と呼ばれていましたが、昭和52年(1977年)に「横浜七福神」と改称して現在に至っています。港北の「横浜七福神」は、横浜市内では戦後最初に創られた七福神であり、「横浜七福神」を名乗ったことから、その後に創られた他地域の七福神は、「横浜○○七福神」などとと呼ぶことになったのでした。

このように、横浜七福神は歴史が古いのですが、公開されている関連資料が少ないので、筆者には、成立当初のことや改称の経緯など詳しいことが分かりませんでした。いろいろと考えた末に思いついたのが新聞の調査です。七福神のご開帳は毎年元旦から7日までですから、年末年始の新聞記事を調べました。横浜港北七福神が結成された頃、港北区には『横浜港北新報』(後に『横浜緑港北新報』)という地域紙があり、毎週1回木曜日に発行されていました。調べてみると、昭和39年(1964年)7月16日号には、後に七福神結成のきっかけとなる菊名弁財天(きくなべんざいてん)の修築が済み、お祭りが行われたとの記事がありました。さらに同年8月6日号には奉賛会(ほうさんかい)が結成されたことと、弁財天の縁起が記されていました。昭和41年1月1日号は、第1面のほぼ全てが横浜港北七福神の特集記事になっていました。

続いて、横浜七福神への改称について調べていたところ、探していた記事は見つからなかったのですが、偶然にも、『横浜緑港北新報』昭和52年(1977年)1月13日号に、港北百話第41回「綱島の桃」という連載記事を見つけたのです。その時は、調査目的が違っていたので、そのままになったのですが、今回ファイルを拝見したことから、本とは別の港北百話があることは、「わがまち港北」の面白いネタになりそうだと思って、第41回から調べ直してみました。「港北百話」の連載はほぼ毎号掲載されていました。昭和52年9月15日の第72回「昔あった寺院」の記事には、文末に「港北百話連載を終ります」と書かれていました。「港北百話」の連載は、実は100回ではなくて、それより28回も少ない72回で終わっていたのです。何とも中途半端です。

不思議に思い、第41回より前に遡って調べました。そうすると、第1回は昭和51年4月15日号の「寺社にまつわる話」でした。第1回の文末には、「「港北百話」は港北区老人クラブの人たちが、古老から聞いた話をまとめたもので、本号から転載します」と書かれていました。そこで、『港北百話』と比べてみると、なんとなんと全く同じ文章ではありませんか。「下田(しもだ)の回り地蔵」から始まり、「昔あった寺院」まで、1冊丸ごと約300ページの内、図表や写真などを除いた全ての文章を72回(欠番があるので、実際は66回)に分けて、ほぼ本のページ順に転載していたのです。

百話とはたくさんの話という意味であり、『港北百話』の本も、実をいうと全百話で構成されているわけではないのですが、新聞連載の「港北百話」が、中途半端な72回で終わってしまった理由は、本を1冊まるごと引用し終わったためだったのです。『横浜緑港北新報』の読者は、本を買わなくても読破できたのでした。新聞への転載が許された経緯は不明ですが、なんともおおらかな話で、今ならとうてい考えられないことです。

期待はずれにがっかりしましたが、本と同文であることに最初に気づかなかった筆者の不明を恥じるべきかも知れません。調査がいつも良い成果を生むとは限らないという教訓になりました。今回は失敗でした。

しかし、思わぬ収穫もありました。「港北百話」連載の前は、「郷土誌田奈(たな)の巻」が連載されており、さらにその前は、地域のお寺や神社の由緒を、それぞれの住職や宮司が書いていました。いずれ役に立ちそうです。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所研究部長)

(2012年3月号)

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