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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第167回 港北区内の名僧・学僧 -その1、印融と釈興然-

2012.11.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北2』(『わがまち港北』出版グループ、2014年4月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


港北区内には多くの寺院があり、そこからは数多くの名僧・学僧が生まれています。

最も有名な学僧は、鳥山町(とりやまちょう)三会寺(さんねじ)の印融法印(いんゆうほういん)でしょう。永享(えいきょう)7年(1435年)に、現在の緑区三保町(みほちょう)の辺りで生まれ、長禄(ちょうろく)3年(1459年)に三会寺第4世住職の賢継(けんけい)から真言密教(しんごんみっきょう)の「許可之密印(きょかのみついん)」を受け、翌年には三宝院流道教方を伝授されています。印融は、一時高野山(こうやさん)の無量光院(むりょうこういん)に入り修業しますが、関東地方で東密(とうみつ)(東寺密教)が衰退していることを憂(うれ)えて、三会寺に帰り第7世住職となります。印融は、東密布教のために、牛に乗って関東各地を歩き回り、荒廃していた寺院を再興し、数多くの弟子を養成しました。牛の背には小さな机をくくり付けてあり、移動しながらも勉強していたその姿は、没後も永く関東の僧侶に慕(した)われたと伝えられています。

印融は、60種類以上200巻をこえる著作や書写本を残しています。なかでも鎌倉時代の百科事典『塵袋(ちりぶくろ)』の写本は、国の重要文化財に指定されてます。印融は、その人格・学識から、弘法大師空海の再来とまで賞せられましたが、永正(えいしょう)16年(1519年)に85歳で亡くなりました。三会寺と観護寺(かんごじ・緑区)にお墓があります。

三会寺には、日本仏教史に特筆すべき業績を残した名僧がもう一人います。第35世住職釈興然(しゃくこうねん)です。

釈尊(しゃくそん・お釈迦様)に始まる仏教は、釈尊の入滅(にゅうめつ・死去)後、大乗仏教(だいじょうぶっきょう)と上座部仏教(じょうざぶぶっきょう、近年は小乗[しょうじょう]とは言いません)の2系統に分かれました。日本へは、中国・朝鮮半島を経由して大乗仏教だけが伝わりました。しかし、日本人として初めて上座部仏教の比丘(びく・僧侶)となり、日本に上座部仏教を伝えたのが、釈興然なのです。

釈興然は、嘉永(かえい)2年(1849年)に出雲国(いずものくに・島根県出雲市)に生まれ、明治15年(1882年)に三会寺の住職となります。明治19年にセイロン(スリランカ)へ渡り、明治23年には日本人として初めて上座部仏教の正式な僧侶(比丘といいます)になりました。この間、明治21年(1888年)には、ドイツ留学から帰国の途にあった森林太郎(もりりんたろう・森鴎外)がセイロンに立ち寄り、当時の首都コロンボで釈興然と会い、同郷の出身であることを知り、その求道精神を讃(たた)える3篇の漢詩を贈ったという故事も伝わっています。

明治26年(1893年)に帰国した釈興然は、三会寺を拠点として、上座部仏教を日本に広めるため、「釈尊正風会(しゃくそんしょうふうかい)」を組織します。林董(はやしただす・後の外務大臣)が会長となり、高楠順次郎(たかくすじゅんじろう・仏教学者)、加藤玄智(かとうげんち・宗教学者)、田中義成(たなかぎじょう・歴史学者)、南条文雄(なんじょうぶんゆう・仏教学者)、上田萬年(うえだまんねん・国語学者)、澤柳政太郎(さわやなぎまさたろう・教育者)、三上参次(みかみさんじ・歴史学者)、白鳥庫吉(しらとりくらきち・東洋史学者)など数多くの名士が名を連ねました。

三会寺に帰った釈興然の元には、パーリ語(教典に使われている古代インドの言語)や上座部仏教の経典、インド事情などを学びたいと、全国各地から僧侶が集まりました。そうした人たちに対して、釈興然は三会寺を開放して、全くの無報酬で寝食を提供しました。三会寺に寄宿していた僧侶の中には、後に「近代日本最大の仏教者」と称される鈴木大拙(すずきだいせつ)や、チベット探検で有名になる河口慧海(かわぐちえかい)といった人たちもいました。また、セイロン(スリランカ)、インド、ビルマ(ミャンマー)などの国々からの訪問客も数多く、まるで南アジア文化センターのようだったそうです。

また、明治末年頃からは、三会寺を中心として、橘樹郡(たちばなぐん)・都筑郡(つづきぐん)・鎌倉郡の32ヵ寺に、シャム(タイ)の諸寺院から寄贈された金銅釈迦牟尼尊像(こんどうしゃかむにそんぞう)を分配し、札所巡りも始めました。

さて、上座部仏教を日本に広めるためには、日本国内で新たな比丘(僧侶)を養成出来るようにしなくてはなりませんが、その資格は、5人の比丘がいて初めて授けられるという規定がありました。釈興然は、5人の比丘をそろえるために、次々に青年僧をセイロンに派遣しますが、様々な事情で比丘の養成は上手くいきませんでした。大正13年(1924年)、釈興然は失意の内に亡くなりました。もし比丘の養成に成功していたら、近代日本仏教史は大きく変わり、鳥山町は日本における上座部仏教の聖地として発展していたかも知れません。

釈興然の弟子分の一人が、伊藤履道(いとうりどう)和尚でした。履道和尚は、明治32年(1899年)四国愛媛に生まれ、23歳の時に釈興然の指示により池辺町(いこのべちょう・都筑区)観音寺の住職となりました。その後、昭和9年(1934年)に新羽町西方寺(さいほうじ)へ転住し、昭和11年から21年まで大綱小学校教諭を兼職し、げんこつ和尚として親しまれました。戦後、伊藤道海(いとうどうかい)と改名し、昭和56年に亡くなりました。その履道和尚の子伊藤宏見(ひろみ)氏は印融研究の第一人者で、『印融法印の研究 伝記篇』上・下2冊の大著で知られています。

釈興然から大きな影響を受けた僧侶が、新羽町にもう一人います。その話は、次回に。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所研究部長)

(2012年11月号)

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