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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第169回 新羽の岡倉天心

2013.01.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北2』(『わがまち港北』出版グループ、2014年4月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


あけましておめでとうございます。平成25年1月1日は、昔の暦(太陰太陽暦)では、まだ平成24年11月20日です。今の暦法(れきほう)は明治6年(1873年)から使用しており、1月1日は西暦でも元号(げんごう・年号ともいう)でも1月1日ですが、それ以前の暦では、西暦と元号が少しずれていたのです。この暦の違いで、生年月日の表記が難しい人物がいます。今年で生誕150年を迎える岡倉天心(おかくらてんしん)です。岡倉天心は、明治・大正期の美術行政や美術運動の指導者です。東京美術学校(東京芸術大学)や日本美術院の創立で知られていますし、後にボストン美術館の東洋部長となり、日本美術の紹介に尽くしたことで世界的にも有名です。『茶の本』『日本の目覚め』『東洋の理想』などの著作は今でも読み継がれています。

この岡倉天心は、横浜市開港記念会館がある場所で、幕末の文久(ぶんきゅう)2年12月26日に生まれたといわれています。西暦に直すと、1863年2月14日となり、正月をまたいで、年が違ってしまいます。

さて、岡倉天心は、母親と明治3年(1870年)に死別しました。翌明治4年、満9歳の時に、父親が後妻を迎え、それを機に里子へ出されます。岡倉天心の全集や伝記、研究書を読むと、最初に大谷氏のところへ、その後神奈川区新町(しんまち)の長延寺(ちょうえんじ)に預けられて、住職の玄導(げんどう)和尚から漢籍を学んだと書かれています。大谷氏とは誰なのか、住所も下の名前も分かりません。

これに対して、前回紹介した平等通照が、著書『タゴールの学園』で、興味深いことを書いています。

(天心は)港北区新羽町(にっぱちょう)新田谷戸(しんでんやと)の金子家に里子として育ち、やや長じて私の父の生家の神奈川新町の長延寺(もと和蘭陀[オランダ]領事館)の寺子屋で私達の祖父雲居玄導(くもいげんどう)法師に漢籍を学んで、私の父はその幼少の頃を知っていた。

岡倉天心は、大谷氏にではなく、なんと新羽町の金子家に預けられたというのです。平等通照の父信之(しんし)は、雲居玄導の末子で、岡倉天心と一緒に写った写真もあったとのことですから、この話にはある程度の信憑性がありそうです。平等通照の著書『菩提樹の木陰』によると、通照は中学生の頃に父からこの話を聞いたと記しています。

では、金子家とはどこでしょうか。明治3年の新羽村の戸数は、161戸でした。

新羽の旧家について、『新羽史』は屋号を持つ旧家127軒を列挙しています。里子を受け入れられるような家はほぼ網羅しているものと思われます。この中で、金子家は6軒あり、新田谷(やと・現在では新田谷戸の表記はあまり使いません)には屋号「カサ」「カヤバ」の2軒があります。この内、屋号「カサ」の金子家がその家です。当時、金子軍蔵か、その父奥右衛門が天心を預かったものと思われます。『菩提樹の木陰』によると、通照は、軍蔵の息子幸次郎に問い合わせましたが、なにも分からなかったそうです。

ちなみに、屋号の「カサ」は、戦国時代に小机城主だった笠原の殿様が馬に乗って新羽を訪れた時に、金子家でお茶を飲み休憩したことから、笠原の「笠」をとって屋号としたとの伝承があります。

天心が金子家に預けられたとするなら、その縁は何だったのでしょうか。『菩提樹の木陰』によると、軍蔵は、榎下(えのした・緑区三保町[みほちょう]、正しくは新治町[にいはるちょう])の清田(せいだ)家の生まれで、金子家へ養子に入ったとのこと。この清田家の親戚に清田八十八(やそはち)という人物がおり、天心の父親の店で働き、後に先妻の娘と結婚して岡倉真範(まのり)と名乗ります。里子の件はそれと関係があるのでしょうか。

もう一つ、興味深い話があります。長延寺の寺伝によると、開基玄栄法師は都筑郡(つづきぐん)吉田村(新吉田町)の出身で、天正8年(1580年)に吉田村に草庵を開いたのが始まりと伝えています。相澤雅雄さんから、新吉田町の字神隠(かみかくし)に、「チョウエンジ」という屋号の家があると伺いました。『新田(にった)のあゆみ』の屋号地図では、山本家の屋号が「チョウエンジ」であるとしています。長延寺が新羽に隣接する新吉田に開かれた寺だったことと、新羽金子家への里子と、何か関係があるのでしょうか?

まったく別ルートの情報ですが、新羽町のある方から、岡倉天心は都筑区のS家と関係があるという話を伺いました。この話も、真偽の確認が取れませんでした。

岡倉天心と新羽の関係、その真偽は歴史の闇の中ですが、天心に関する複数の情報が新羽から見つかったことにロマンを感じるのは筆者だけでしょうか。
余談ですが、平等通照は「仏教徒は仏暦(ぶつれき)を使いましょう」の合い言葉で、仏暦使用運動を熱心に勧めていました。西暦がキリストの誕生から数えるのに対して、仏暦とは仏陀(ぶっだ)の生まれた年を第1年とする年号です。平成25年は、仏暦2556年になります。東南アジアの仏教国では、現在でも使われているそうです。大倉精神文化研究所には、平等通照から届いた仏暦の年賀状があります。附属図書館で1月12日まで開催している展示会「年賀状に見る昭和ノスタルジー」で公開しています。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所研究部長)

(2013年1月号)

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