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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第183回 小机の旧家村岡家-広重の袋戸絵-

2014.03.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北3』(『わがまち港北』出版グループ、2020年11月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


1月に、小机の本法寺に大勢集まっていただきまして、昔のことを伺いました。その中で、神奈川区の西川喜代子さんが、「子供の頃、ラジオに"村岡のおばちゃん"が出る時間には、ちゃんと家に帰って、よく聞いていました、イイお声でやさしいおばちゃんという感じでしたよ」と教えてくださいました。村岡花子は『赤毛のアン』の翻訳家として有名ですが、戦前は、午後6時から始まるラジオ番組『子供の時間』の中で、「子供の新聞」というコーナーを1932年から41年まで担当していました。その頃は、全国の子供たちから「ラジオのおばさん」といわれた人気者だったのです。西川さんは、当時聞いた村岡花子さんのラジオ放送のことを鮮明に覚えておられました。

その村岡花子の義父、村岡平吉ですが、平吉の生まれた小机の家は、屋号を「元紺屋(もとごや)」といいます。「屋号」とは、家に付けられた通称で、家のある場所や、生業(なりわい・職業)、先祖名、親族関係などから付けられました。港北区内各地域の屋号を記した資料は第127回で紹介しましたが、小机についてはこれまで記録が見つかりませんでした。今回、樽町(たるまち)の吉川英男さんが、日下部(くさかべ)幸男『小机城の歴史』平成13年版に、「明治13年頃の小机村」という屋号を記した地図が付されているのを教えてくださいました。ちなみに同書の平成17年版には、この付図がありません。日下部さんには『四月十五日の小机空襲』という著作もあります(全て3月25日から再開館する港北図書館でどうぞ)。

小机には、村岡平吉の生まれた「元紺屋」とは別に、もう一軒「紺屋(こうや)」と呼ばれる村岡家があります。「元紺屋」と「紺屋」、2軒の村岡家はいずれも泉谷寺(せんこくじ)の檀家です。遠い昔には一族だったのかも知れませんが、その関係は現在ではもう分かりません。

両村岡家の菩提寺である泉谷寺は、広重(ひろしげ)の杉戸絵(県指定文化財、第106回参照)で有名ですが、「紺屋」の村岡家にも広重が描いた袋戸絵(ふくろどえ)四枚がありました。

伝統的な日本家屋では、床の間(とこのま)の床脇(とこわき)に、袋棚(ふくろだな)と呼ばれる比較的小さな収納棚を造りますが、袋戸とはその袋棚の引き違い戸のことです。この袋戸絵については、郷土史家の石井光太郎(みつたろう)が、昭和24年(1949年)に「広重と小机」と題した論文で詳しく紹介しており、『港北区史』にも全文が転載されています。

大作ではないが小机には外に、紺屋を営む村岡愛作氏方に遺作があることが知られてゐ(い)る。これは袋戸棚に貼られた花鳥3、風景1の4枚の小品であるが、兄弟合作であるところに、広重の小机来訪の記念として見のがすことが出来ないものである。

この袋戸絵の存在は長い間知られていませんでしたが、昭和3年(1928年)の泉谷寺の杉戸絵発見に続いて、昭和4年3月28日の『東京朝日新聞』で初めて大きく報道されました。当時所有者であった村岡愛作は、記者のインタビューに、「私の家は300年来小机で染物屋を営んでゐ(い)るのです」と答えています。余談ですが、愛作の父親は重太郎といい、橘樹(たちばな)郡会議員をしていました。愛作は、小机が横浜市に編入される直前、橘樹郡城郷村(しろさとむら)だったときの最後の村会議員でした。

紺屋(こうや、または こんや)とは、藍染(あいぞめ)をする染め物屋のことです。村岡家(紺屋)は、屋号が示すとおり、藍染めの作業場を持ち、横浜上麻生線道路の脇で製造と販売をしていました。工場には藍甕(あいがめ)があり、洗い張りなどもしていましたが、愛作の死後、昭和40年代半ばには製造を終えました。販売店は平成の初め頃まで営業していたので、まだご存じの方も多いことでしょう。

村岡平吉の家は「元紺屋」といいますので、やはり昔は紺屋を営んでいたのではないかと思うのですが、家にはそのような伝承は伝わっていないようで、屋号の由来は不明です。

さて、天保9年(1838年)作といわれている村岡家(紺屋)の袋戸絵は、以前は見学に来られる方も多かったようですが、母屋を建て直す際に、末長く保存するため、愛作の息子豊(ゆたか)氏が神奈川県立博物館(現、県立歴史博物館)に寄贈されました。『港北区史』に写真が掲載されています。

石井光太郎は、「広重と小机」の中で、広重が残した第3の作品についても触れています。昭和23年(1948年)のことでしょうか、雨上りの10月17日に小机城址の麓(ふもと)に旧家沼上左右(ぬまがみそう)氏を訪ねた石井は、六歌仙の大幅(たいふく)を見つけますが、それが広重の作品であり、村岡家(紺屋)の袋戸絵と同じ落款(らっかん)が押されていたのだそうです。沼上家は、小机城代笠原氏の家人(けにん)(あるいは家老)をしていた沼上出羽守(でわのかみ)の子孫で、『新編武蔵風土記稿』にも記されている旧家です。小机の歴史は奥が深いです。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所研究部長)
(2014年3月号)

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