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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第184回 悲劇の横綱 武蔵山-その2-

2014.04.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北3』(『わがまち港北』出版グループ、2020年11月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


3 月8日、9日は第26回大倉山観梅会でした。昨年(2013)に続いて今年も天候に恵まれ、梅林は大勢の人で溢れかえっていました。この賑わいを見ているだけで楽しい気分になります。9日の日曜日、筆者にはもう一つ楽しみなことがありました。大相撲3月場所の初日です。近年、悪(あ)し様(ざま)に風聞(ふうぶん)されることの多い角界(かくかい)ですが、土俵に立つ力士たちは、本場所で1つでも多く勝ちたいと日々稽古に励んでいます。3月場所は3月23 日で千秋楽(せんしゅうらく)を迎えてしまいましたが、筆者は早くも次の5月場所が待ち遠しいです。港北区には現在、綱島小学校、新羽(にっぱ)小学校、太尾下町(ふとおしもちょう)子供の遊び場の3ヶ所に土俵が設けられています。3つの土俵では毎年相撲大会が開催され、熱い戦いが繰り広げられています。港北区は比較的相撲の盛んな地域といえるでしょう。しかし、残念ながら、神奈川県出身の現役力士17人の中に、港北区出身の力士は一人もいません。

さて、「シリーズわがまち港北」では、相撲に関する話題として、第36回第38回で、第33代横綱武蔵山(むさしやま)について書いています。今から約12年前のことです。その間に3人の横綱が新たに誕生し、日馬富士(はるまふじ)で70代目となりました。日吉村駒林(ひよしむらこまばやし・現、日吉本町)出身の武蔵山は今でも神奈川県出身唯一の横綱です。そして、3月場所7日目にあたる3月15日は、武蔵山こと横山武(たけし)が亡くなってから、ちょうど45年目を迎える日でもありました。12年の間に武蔵山に関する雑誌の記事などがいくつか見つかりましたので、この機会に少しご紹介します。

武蔵山は、利き腕である右腕の怪我に悩まされ、横綱在位わずか8場所(うち皆勤は1場所)、弱冠(じゃっかん)29歳5ヶ月で引退を余儀なくされた「悲劇の横綱」として知られています。しかし、武蔵山は現役時代から母親思いの孝行息子としても知られる力士でした。『日曜報知』第221号(昭和10年6月)掲載の「新横綱武蔵山関」によると、入門当時、武蔵山の師匠である出羽ノ海(でわのうみ)親方が、なぜ力士になりたいのか尋ねたところ、武蔵山は「お母さんを幸福(こうふく)にしてあげたいからです」と答えたと言います。また、武蔵山は巡業先から必ず母親宛に手紙やお土産を送り、本場所終了後に与えられる1日の休みには、日吉村の生家に帰って家族と語り合うのを楽しみしていたそうです。さらには「日吉台の揺籃(ようらん)の地に彼れが母のためにと建てた新築の家も亦(また)彼れが孝心の閃(ひらめき)」であったと書かれています。武蔵山がいかに母親思いであったかがよくわかります。

『婦人倶楽部』昭和10年7月特大号には、「天晴れ(あっぱれ)若き新横綱 武蔵山の母子愛涙話(あいるいわ)」と題する記事が掲載されています。これは、武蔵山の少年時代から横綱に昇進するまでの道のりを書いたものです。記事は事実そのものというよりも、ノンフィクション小説といった色合いですが、横綱武蔵山の誕生における母親と故郷の存在の大きさが感じられる内容となっています。話は、日吉台小学校の川田融校長に働きぶりを褒(ほ)められるところから始まっています。また、当時の日吉村について「今でこそ東横電車が通じたり慶應義塾が移ったりして幾らか賑かになったが、その頃(大正15年頃)の日吉村と云(い)へば、武蔵野特有の林や谷や小山に繞(かこ)まれた草深い田舎だった」と描写しています。祖母のキンさん、母のすずさんらと写した家族写真には、頭一つ飛び出た武蔵山の姿もあります。

また、昭和13年の『相撲』1月号に、当時の横綱4名と大関2名による座談会の内容が掲載されています。その中で、信仰について問われた武蔵山は「私は、守本尊(まもりほんぞん)がお不動さまですから、不動さまを信仰します」と話しています。武蔵山に限らず、力士には不動尊信仰が多かったそうですが、武蔵山の場合、彼が酉年(とりどし)生まれで、干支の守り本尊が不動明王だったことがその一因かも知れません。また、武蔵山の菩提寺(ぼだいじ)で、生家の隣にある金蔵寺(こんぞうじ)の本尊は大聖不動明王(だいしょうふどうみょうおう)で、日吉不動尊とも呼ばれています。これも彼の信仰に何らかの影響を与えていたかも知れません。なお、第38回で紹介したように、金蔵寺の本堂右脇には、武蔵山遺愛(いあい)の松があり、今もいい枝振りを見せています。

余談ですが、金蔵寺から日吉駅に向かって普通部通りを歩いてくると、高砂(たかさご)部屋所属力士で、弓取りの名手として知られた大田山(おおたやま)が開いた料理店、その名も「大田山」があります。ここで高砂部屋の味を引き継ぐ濃いめのみそ味ちゃんこに舌鼓(したつづみ)を打つのもいいかも知れません。

話を武蔵山に戻します。YouTubeで、武蔵山が横綱として唯一皆勤した昭和13年(1938年)5月場所の千秋楽、男女ノ川(みなのがわ)との取組映像を見ることが出来ました。筋肉質で細身のソップ型力士である武蔵山が、投げを打つ姿は今見ても興奮を覚えます。他に、NHKアーカイブスでは、『相撲 国技館スケッチ「武蔵山対朝潮(あさしお)」』というラジオ番組が保存されており、NHK横浜放送局で聞くことが出来ます。

記:林 宏美(大倉精神文化研究所職員)
(2014年4月号)

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