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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第186回 菊名池

2014.06.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北3』(『わがまち港北』出版グループ、2020年11月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


菊名池(きくないけ)について問い合わせを受けましたので、今回はその話をしましょう。先月より始めた「地域の成り立ち」シリーズは、不定期連載として、ゆっくり進めます。

さて、菊名池について『港北百話』は、平安時代の昔より、灌漑(かんがい)用水として付近の農民に寄与したことと、1300年以上も前から大龍神が鎮座(ちんざ)、里人(さとびと)は菊名池大明神とあがめ奉ってその守護を得ていたとの伝承を記しています。この菊名池にダイダラ坊伝説があることは第57回で紹介しました。

菊名池の水は、大豆戸(まめど)村(菊名村も一部含む)の農地を潤す主要な用水であり、池の北端から、鶴見川へ向かって用水路が流れ出ていました。大豆戸村の農家を中心として水利組合も作られていました。この用水路は、かつて大豆戸菊名用水路とか、大豆戸根川(まめどねがわ)などと呼ばれていました。現在は暗渠となっていて、幻の菊名川などと呼ぶ人もいますが、本当の菊名川は三浦半島にあり、その辺りから菊名一族が港北の地に移り住み、菊名の地名が出来たとの説があります。

さて、都市化の進展に伴い、菊名池の農業用水は役目を終え、水利権は組合から市へ売却されました。用水路は、現在は下水として港北土木事務所が管理しており、正式には川としての名称は無くなっています。「だいちゃんマップ」で検索すると公共下水道台帳図が見られます。とても詳しくて、一見の価値あり!

話を菊名池に戻しましょう。昭和6~8年(1931~33年、菊名池辺りは33年)に野毛浄水場(のげじょうすいじょう・後に西谷[にしや]浄水場)から鶴見配水池(つるみはいすいち)まで送水管(第一鶴見高区線)が敷設(ふせつ)されました。神奈川区片倉から鶴見までは、その上が横浜市主要地方道85号鶴見駅三ツ沢線となり、水道道(すいどうみち)の愛称で呼ばれています。この水道道が菊名池の中央を横切り、菊名橋(きくなばし・1935年11月竣工)が架けられました。『われらの港北 30年の歩み』によると、「水溜(みずた)まりのような池」には立派すぎる橋で、当時の堀江水道局長があまりに立派な橋を造りすぎたことの責任をとらされ、クビになったとの話がありました。余談ですが、港北消防団は昭和23年(1948年)1月に結団され、最初の出初め式(でぞめしき)は菊名橋の上で挙行されました。

昭和7年(1932年)に東横線が全線開通して、妙蓮寺(みょうれんじ)駅から水道道沿いは急速に高級住宅地化していきました。貸しボート屋の営業で菊名池はデートスポットとなり、昭和24年頃には、鯉(こい)を養殖して釣り堀にもしていました。しかし、昭和29年(1954年)発行の『われらの港北 15年の歩ミと現勢』には、「コバルトの空をうつして、さながらエメラルド・ポンド(池)の観があったのはずっと昔の話だそうで、天然の菊名池もヒョウタン形は昔のままなれど、いまは悲しい汚水をそのヒョウタンにたたえている」と記されています。

宅地化が進むにつれ、家庭雑排水で池はどんどん汚れていきました。『港北 都市化の波の中で』(1971年)によると、菊名池には、周辺の下水管7本が流れ込んでおり、特に夏場の悪臭が酷(ひど)かったようです。そこで、市は池への下水放流を止めて、下水処理場を造り処理することにして、昭和43年(1968年)11月より菊名下水処理場(仮称)の建設に着手しました。

そうした中で、昭和45年(1970年)に菊名池歴史風土研究会が開かれました。緑区の相澤雅雄さんからいただいた資料によると、竹内治利(たけうちはるとし)・佐久間道夫(さくまみちお)の共著『鶴見川誌』刊行の内祝いとして、菊名池の畔(ほとり)にあった竹内宅に、有島生馬(ありしまいくま、有島武郎[たけお]の弟、画家)、大佛次郎(おさらぎじろう、作家)、藤山愛一郎(ふじやまあいいちろう、政治家)、石川武靖(いしかわたけやす、師岡熊野神社先代宮司)、佐久間道夫が集まりました。たまたま話が信濃(しなの)、武蔵(むさし)の古地誌(こちし)から菊名池に及ぶと、「石神井(しゃくじい)、井之頭(いのがしら)、深大寺(じんだいじ)、洗足池(せんぞくいけ)なぞ、武蔵野の代表的名池(めいち)とかつてはその名を等(ひと)しくせる菊名池の現状との比較となり、その歴史に於(お)いて、その龍神鎮座(りゅうじんちんざ)の伝承(でんしょう)に於(お)いては全く同一なのにと、池の衰退(すいたい)をなげかれた」と記しています。武蔵の古地誌とは約200年前に編纂された『新編武蔵風土記稿』のことでしょうか。この本には、当時の港北区域に13ヵ所(もっと古くは15ヵ所)の溜井(ためい)があると記されています。溜井とは、灌漑用のため池のことです。菊名池もその1つですが、13ヵ所の内で池の名前が記されているのは菊名池と、箕輪村(みのわむら・現箕輪町)の大池(おおいけ)だけです。

菊名下水処理場(仮称)は、昭和47年(1972年)12月に港北下水処理場(現港北水再生センター)として完成しました。下水の流入が止まった菊名池は干上がることが心配されたので、水道道の北側だけを池として残し、南側にはプール(1973年7月オープン)を造り、現在の姿になりました。

大池は、箕輪池とか箕輪大池とも呼ばれていましたが、農業用溜井としての役割を終えた昭和42年(1967年)に埋め立てられて、跡地は防火貯水槽と諏訪神社社務所兼公会堂となっています。その経緯は『箕輪のあゆみ』に詳しく記されています。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所研究部長)
(2014年6月号)

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