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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第189回 日誌が語る日吉の連合艦隊司令部 -終戦秘話その18-

2014.09.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北3』(『わがまち港北』出版グループ、2020年11月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


前回の続きです。防衛省防衛研究所の戦史研究センターでは、連合艦隊司令部が木更津沖に停泊していた軽巡洋艦(けいじゅんようかん)大淀(おおよど)から日吉の丘に移転してきた際の司令長官、豊田副武(とよだそえむ)の日誌4冊(うち1冊は戦後に作成された摘録[てきろく])を見ることができます。

日誌は、個人的な感情をあまり交えず、遂行中の作戦の状況や敵機の来襲、参加した会合や基地の視察など、その日の出来事を箇条書きで記したものですが、記載が1 日1 ページ以上に及ぶ日もあり、多くの情報を知ることができます。

連合艦隊司令部の日吉移転に関わる記述が豊田の日誌に初めて登場するのは、昭和19年(1944年)8月15日のことです。そこには「GF(連合艦隊)司令部陸上施設至急研究」とあります。8月20 日、24日には、移転に関する打ち合わせが行われたこともわかります。また、日吉の陸上施設への移転に関して否定的な空気があったことも窺えますが、具体的な内容について書かれていないのが残念です。但し、問題はすぐに解決し、着々と準備は進められたようです。

9月25日には、「首席参謀東京より帰艦、(中略)GF司令部陸上移転問題に関し、省部(海軍省と軍令部)上司の了解を得たる旨報告あり」と書いています。そして、9月27日に、「荷物大部分を日吉に送出」し、翌28日は大淀での最後の会合を終え、29日には日吉への移転を完了します。ちなみに、日吉への移転直前の9月27 日の日誌の冒頭には、「朝初雪の富嶽(ふがく・富士山)を見る」と書かれています。甲府地方気象台のホームページを見ると、昭和19年の富士山の初冠雪(かんせつ)は確かに9月27日になっていました。豊田は司令部が置かれていた大淀の艦上から、毎日富士山を眺めていたのかも知れません。

また、昭和20年(1945年)2月9日には、七面鳥が1羽孵化(ふか)、10日には3羽孵化したことが書かれています。日吉の司令部では、執務場所として使用していた慶應義塾大学の寄宿舎の横で七面鳥を飼っていました。豊田は七面鳥を可愛がっていたそうですので、雛(ひな)が孵(かえ)ったことが嬉しかったのでしょう。これらの記述からは、四季の移り変わりや新しい命に心を寄せる豊田の人柄が垣間見える気がします。

次は横浜の空襲に関わる記述を見ていきましょう。昭和19年11月1日に、「1325(13時25分、日誌中の時間表記は4桁の数字で書かれています)空襲警報、B-29×1、日吉南方を南西方に行くを見る、白煙を吐きつゝあり、関東地区来襲の嚆矢乎(こうしか)(始まりか)」という記述が見られます。日吉へのB-29来襲が日誌に登場するのはこれが最初です。また、12月8日、10日、11日、翌20年3月4日には、空襲警報の発令や、敵機の来襲に際し、地下壕へ避難したことが書かれています。

昭和20年4月4日の日吉への空襲については、「0100頃、B-29×約90機、京浜地区に来襲、新宿、渋谷方面、川崎、横浜方面、焼夷弾(しょういだん)爆弾混用爆撃す、日吉司令所兵舎、酒保(しゅほ)倉庫全焼、庁舎硝子(がらす)破損多数」と、司令部が被った損害が記されています。日吉では4月15日、16日に大規模な空襲がありましたが、その時、豊田は鹿児島県の鹿屋(かのや)基地にいたためか、日誌に記述はありません。

豊田は終戦まで連合艦隊司令長官の任にあった訳ではなく、終戦を迎える約2ヶ月半前、軍令部総長へと転任しています。それに伴い、豊田は5月29日に日吉の地を離れます。奇(く)しくも横浜大空襲当日のことでした。その日の日誌には次のように書かれています。

「0830頃より敵戦爆連合大編隊京浜地区に来襲、0935迄に駿河湾より侵入せるものB-29×425、P-38×20、P-51×約40なり、攻撃目標横浜川崎方面、爆弾及焼夷弾混用す、1030頃概(おおむ)ね南東方に脱去す、(中略)1400補軍令部総長1600小澤新長官着任、儀礼例の如し。1645日吉司令部退隊(後略)」

同じ5月29日のことを書いた日誌をもう一つ紹介します。当時、連合艦隊司令部の通信参謀だった元海軍中佐、市来崎秀丸(いちきざきひでまる)はこの日を次のように書いています。「敵大編隊、横浜方面を空襲、市内の大半がやられたらしい。横浜方面の黒煙濛々(もうもう)たる内に長官の交代行事を実施する。一層厳粛悲壮の感がある。」

今回紹介した5月29日の2つの日誌からは、多くの犠牲を生んだ激しい空襲と、通常どおり粛々と進められた静かな儀礼との対比が浮かび上がります。

「わがまち港北」では、これまでにも、横浜大空襲当日の日誌や、戦争体験の記録をいくつか紹介してきました(第32回第33回第140回第164回参照)。同じ日のことを書いた記録であっても、内容はどれ一つとして同じではありません。そこには一人一人異なる視点からの戦争が描き出されています。その全てをこの場で紹介することは到底出来ませんが、今後も可能な限り、港北区域の戦争に関する記録を取り上げていきたいと思います。

記:林 宏美(大倉精神文化研究所研究員)
(2014年9月号)

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