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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第195回 港北区ゆかりの俳人 -秋元不死男-

2015.03.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北3』(『わがまち港北』出版グループ、2020年11月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


先日、大倉精神文化研究所附属図書館の未整理本の中から、『神奈川県俳人録』(昭和7年)という本が見つかりました。当時の神奈川県下の俳人の情報を集めたこの本は、岩田田爐(いわたでんろ)(1904~1989年)の編纂(へんさん)で、図書館から発見されたのは本人からの寄贈本でした。岩田田爐は昭和10年(1935年)に、神奈川県の他、東京や埼玉までを含めた俳人一覧『武相俳句大観』も編纂しています。岩田田爐は岸根町の出身で、本名を岩田太郎といいます。『城郷(しろさと)青年団史附城郷村史』(昭和5年)の編輯(へんしゅう)者であり、戦後には、横浜市会議員や横浜北農業協同組合の第2代組合長なども務めた人物です。ちなみに綱島出身の俳画家飯田九一(いいだくいち)は、岩田田爐の叔父にあたり、『神奈川県俳人録』の表紙の絵は九一が描いたものでした。岩田は九一が主宰した『海市(かいし)』にも参加しており、その手ほどきも受けていたと思われます。

飯田九一が、横浜文化賞の第1回受賞者であることは、わがまち港北の第107回で書いていますが、横浜文化賞を受賞した俳人で、港北区にゆかりのある人物がもう1人います。第20回(昭和46年度)受賞者の秋元不死男(あきもとふじお)です。

秋元不死男(1901~1977年)は、横浜市中区元町の出身で、長く横浜に居住し、昭和31年(1956年)の横浜俳話会創立に際しては、発起人の1人として名前を連ねるとともに、最初の幹事長となっています。しかし、翌32年に東京都杉並区へ移住したことから、1年で幹事長の職を辞して顧問となりました。その後、昭和43年(1968年)に、不死男は東京から再び横浜へ戻ってきますが、その時に新居を構えたのが港北区下田町、下田山真福寺(しんぷくじ)(下田地蔵尊)のほど近くでした。不死男は自身が丑年(うしどし)で夫人が午年(うまどし)であったことから、自宅を「牛午山房(ぎゅうごさんぼう)」と名づけ、庭にはその碑を立てていたそうです。下田町への転居を前書きとする句を1つご紹介します。

書けぬ日の 蟻蜂は尻 見せにくる

句集『甘露集(かんろしゅう)』には、自宅である「牛午山房」や、そこから約1㎞程の距離にある日吉本町の金蔵寺(こんぞうじ)を詠んだ句もあります。

秋元不死男の自宅の近くには、不死男に師事した鷹羽狩行(たかはしゅぎょう)さんが現在も住んでおられます。鷹羽さんには、自身の句集をはじめ、多くの編著がありますが、近刊には住み慣れた地名から題を取ったという『日吉閑話(ひよしかんわ)』(平成25年、ふらんす堂)があり、その中で「不死男先生と私とは、横浜・日吉の丘の上、慶大の野球場をへだてて住んでいた。」と書いています。鷹羽さんのエッセイ集『胡桃(くるみ)の部屋』(1991年、ふらんす堂)から1つエピソードを引用します。

この不死男新居のある日吉に、私も新居を建てた。氷海(ひょうかい)二十周年記念の功労者として表彰するから、何が欲しいかときかれ「牛午山房」のような新居の命名がほしいと言った。即座に「鶏頭山房(けいとうさんぼう)」はどうかね、と先生。ポカンとしている私に向かって「ケイトウとなるもギューゴとなるなかれ......」。とにかくユーモアたっぷりで、人を楽しませてくれる師であった。

『氷海』は不死男が昭和24年(1949年)に創刊した俳誌です。『日吉閑話』によると、この新居名の話は結局まとまらなかったそうですが、秋元不死男の人柄、鷹羽さんとの仲睦まじい師弟関係が窺えます。ちなみに鷹羽さんは、『とうよこ沿線』の1号と7号で、日吉住民として似顔絵付きで紹介されており、その名前は、わがまち港北の第79回でも登場しています。

秋元不死男は、昭和52年(1977年)7月25日に76歳で亡くなり、葬儀は真福寺で行われました。真福寺の境内、本堂を背にして正面左側には、今も「けふありて 銀河をくゞり わかれけり」という不死男の句碑があります。碑の裏側には「昭和五十五年七月二十五日 秋元不死男門下有志建之」と刻まれており、3度目の祥月命日に、亡き師を偲(しの)んで建てられたものであることがわかります。

秋元不死男と終戦直後から交流があり、第32回(昭和58年度)横浜文化賞を受賞した俳人の古沢太穂(ふるさわたいほ・1913~2000年)は、主宰した俳誌『道標(どうひょう)』(1993年9月号)で、不死男の句碑のことを書いています。不死男の十七回忌に際して書かれたこの随想によると、太穂は、その年のゴールデンウィークのよく晴れた1日に、日吉駅からバスに乗って真福寺を訪れ、句碑との語らいの後、冷えびえとした本堂に座って、不死男の葬儀の日を回想し、「低き碑も 冷えの日名残り 白椿」という句を書き留めています。

地元の方によると、真福寺は「椿のお寺」とも言われているそうです。筆者が訪れた日にも、境内では、赤・白・ピンクとさまざまな椿が咲いていました。また、句碑の向かいでは、横浜市の名木古木に指定されたシダレウメが白い花をつけていました。

情趣ある寺院の境内で、地域ゆかりの偉大な俳人の句碑を前にしながら、俳句を詠む素養も度胸もなかったことが、ちょっとだけ悔やまれました。

記:林 宏美(公益財団法人大倉精神文化研究所研究員)

(2015年3月号)

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