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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第196回 球春到来!!-港北区と野球の関係・その1-

2015.04.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北3』(『わがまち港北』出版グループ、2020年11月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


港北区には、横浜F・マリノスのホームスタジアムの日産スタジアムがありますので、近年はサッカーの街というイメージが強くなりました。しかし、港北区はサッカーだけでなく、実は野球ともつながりがあります。

東京六大学野球連盟に所属する慶應義塾体育会野球部の野球場と合宿所は下田町にあります。場所は日吉駅からバスに乗って10分弱、下田仲町(しもだなかちょう)のバス停を降りるとすぐ目の前です。

野球場と合宿所は、もともと東急多摩川線の武蔵新田(むさしにった)駅(東京都大田区)付近にありましたが、昭和15年(1940年)に下田町へ野球場がつくられ、翌年にはその近くに新しい合宿所も完成し、野球部の拠点は武蔵新田から移転します。但し、その時の合宿所は、野球場がある下田町ではなく、日吉本町の慶応ネッスルハウス(外国人教員用宿舎)が建っている場所にありました。

移転から間もない昭和16年(1941年)12月、太平洋戦争が始まります。昭和18年(1943年)4月には文部省からリーグ戦禁止と連盟の解散が通達されました。9月には文科系学生に対する徴兵猶予(ちょうへいゆうよ)が停止され、学徒出陣が始まります。学生たちの入営が始まる2ヶ月前、10月16日に行われた出陣学徒壮行早慶戦(最後の早慶戦)は、戦争中に行われたアマチュア野球最後の試合となりました。その後、部員たちの多くが戦地へ向かい、下田町の野球場は芋畑へと変わりました。

戦争が終わると、野球部員たちも徐々に戦地から戻り、昭和21年(1946年)春に東京六大学野球リーグも復活しました。しかし、野球場はまだ芋畑のままで使用出来なかったため、練習は日吉キャンパスにある陸上競技場のトラックの中で行われていたそうです。

『慶應義塾野球部史』(1960年)、『慶應義塾野球部百年史』(上・下巻、1989年)には、関係者の回想が多数掲載されています。昭和21年度秋季主将の大島信雄さんの回想には、「リーグ戦復活というのに日吉は芋畑となっていた。農場から牛を拝借、集まった手不足な人数で畑地をならした」とあります。昭和22、23年(1947、48年)に監督をしていた上野清三さんは、「私が毎日通った時分には未だ内野に多少の起伏があり戦争時の芋畑だった名残りをとどめていた」と当時を振り返ります。

昭和23年度卒業の松尾俊治(しゅんじ)さんは、終戦直後の合宿所はひどい荒れようで、ノミの猛攻やねずみ退治に苦労したこと、合宿所は水の便が悪かったために風呂がなく、新丸子や綱島温泉まで出掛けたことなどを述べています。

また、その頃の回想に共通して書かれているのは、戦後の物資難の厳しさです。食糧にも野球道具にも事欠いた合宿生活は、練習とは違う苦しみとして、忘れがたい思い出となっていたことがわかります。

戦前・戦後の部員たちが暮らした合宿所は、昭和46年(1971年)8月に建て替えられ、場所も日吉本町から下田町の現在地へ移転しました。慶應が同年秋と翌47年春・秋のリーグ戦で優勝し、慶應野球部史上初の3連覇を成し遂げたのは、こうした環境の変化も理由の1つかも知れません。

この3連覇に貢献し、かつ新旧の合宿生活を経験している部員の一人に、山下大輔さんがいます。在学時に「慶應のプリンス」と呼ばれた山下さんは現在、横浜DeNA(ディーエヌエー)ベイスターズのファーム(二軍)監督を務めています。山下さんは百年史の中で、日吉本町にあった合宿所のことを、「グラウンドまで歩いて5分位の日吉本町の小高い丘の上に、まさしく旧兵舎そのものといった感じの合宿所があり」「四方を見渡せるかわりに台風でもきたらすぐ倒れそうな古い建物」だったと書いています。

野球場と合宿所が武蔵新田から日吉へ移転した際、それを追って移転したお店もあります。平成2年(1990年)まで慶應の日吉キャンパス内で営業していた梅寿司です。大の慶應ファンだった梅寿司のご主人は、海苔巻きを神棚(かみだな)に上げて、慶應の応援歌である「若き血」を聞かせてから野球部に渡していたとか。

日吉の慶應ファンは、梅寿司のご主人だけではありません。また、野球部にいるのもスター選手ばかりではありません。昭和60年度主将の遠藤靖さんは、ユニホームを着て脚光を浴びている選手もそうでない者も、同様に世話をしてくれたのが日吉や下田の街の方々で、日頃目立たないところで応援してくれた、こうした蔭の人たちこそ忘れてはならないものではないかと述べています。

現在の野球部合宿所は、平成20年(2008年)に建て替えられたもので、野球場は一昨年に人工芝が貼り替えられました。外野の緑がまぶしい野球場では、応援歌然りと若き血に燃えて練習に励む野球部員の姿が見られます。今はオープン戦の最中ですが、それが終わるといよいよ4月11日から、明治神宮野球場を舞台に春季リーグ戦が始まります。リーグ戦最終週に満を持して行われる慶早戦(けいそうせん)は、今も昔も大学野球の花形です。果たして陸の王者慶應は今季リーグ戦の王者となれるか否(いな)か、勝負の行方が楽しみです。

記:林 宏美(公益財団法人大倉精神文化研究所研究員)

(2015年4月号)

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