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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第201回 歓成院裏山の防空壕 -終戦秘話その20-

2015.09.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北3』(『わがまち港北』出版グループ、2020年11月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


戦争中はどの家でも、敵の航空機による空襲から避難するために、地面を掘って待避所を作りました。これを防空壕(ぼうくうごう)といいます。港北区域でも、山の斜面などに数多くの防空壕が掘られました。

建築家として世界的に著名な隈研吾(くま けんご)さんが、大倉山に掘られていた防空壕について、著書の中で紹介しています。隈さんは、大倉山に生まれ育ちました。著書『僕の場所』(大和書房、2014年)の中で、「大倉山の山裾に、農家が一列にずっと並んで」いて、その1軒の「ジュンコちゃんち」では、「山に向かって深く掘られた防空壕」があり、「この孔(あな)がとてつもなく暗く、深かった。ガマガエルも、ムカデも棲(す)んでいた。怖く、恐ろしくて、僕はこの防空壕の終点を確かめることができませんでした」と書いています。

大倉山の山裾、「ジュンコちゃんち」の並びには、歓成院(かんじょういん)があり、その裏山にも防空壕が掘られていました。歓成院名誉住職摩尼之法(まにしほう)さん(75歳)から、つい最近興味深い話を伺いましたので、以下に要約して御紹介いたします。

  1. 戦争中、歓成院の裏山にいくつか防空壕が掘られていた。その中で一番大きい防空壕を海軍が使っていた。他の小さな防空壕が入り口から水平に掘られていたのに対して、海軍のは少し上へ傾斜して掘られていて、そこへトロッコが敷設(ふせつ)されていた。少し入った突き当たりからは、右へ、大倉山駅方面へ横穴が掘ってあったが、未完成だった。
  2. この防空壕は確か素掘りだったと思う(筆者注:海軍の日吉台地下壕はコンクリートで補強されている)。他の防空壕に比べて、特に立派で、地元の人たちは「海軍、海軍」と呼んでいた。
  3. 戦後、防空壕の中は空っぽだった。防空壕から水が出始めたので、水道がまだ無かった頃は、鉄管を敷いて摩尼家の水道にしていた。その後、落盤が発生したり、昭和32年(1957年)頃には斜面の崩落も起きた。そこで、平成4年(1992年)に県が擁壁(ようへき)を作って入り口を塞いだ。しかし、穴を埋め戻してはいないので、今でも水が出ていて、「大倉山の名水」と自称している。

さて、歓成院の裏山の上は、大倉山公園の「ピクニック園地」で、その先には大倉山記念館があります。戦争中、記念館の中には海軍気象部の分室が疎開していました(第44回参照)。歓成院裏山の防空壕は、これと関係がありそうです。

海軍気象部の中心人物だった大田香苗(おおたかなえ)元海軍大佐の『海軍勤務回想』には、「大倉山の中腹に隧道(ずいどう)を掘り壕内で作業可能の如くする(防空壕は気象部従業員の手を以って掘り、昭和20年7月27日までにはH字形水平壕の内約三分の二の百十五米メートルを掘っていた)」と書かれています。この記述から後に『気象百年史』の文章(第69回参照)が執筆されました。

大倉精神文化研究所の『日誌』には、昭和20年4月15日条に「海軍気象部ヨリノ依頼ニヨリ、同部防空壕建設ノ鍬入式(くわいれしき)を岡田・小森両所員ニテ奉仕ス」と書かれています。鍬入式とは、工事の安全を祈願する儀式です。地鎮祭(じちんさい)の一部として実施されたり、地鎮祭と同じ意味で鍬入式といわれることもあります。

2つの資料は、いずれも歓成院裏山の防空壕のことを記述しているものと思われます。

摩尼之法さんによると、防空壕の出入り口は1ヵ所で、山の上に出入り口は無かったそうです。山の上から防空壕の入り口に下りてくる整備された道もありませんでした。しかし、斜面にはちょっとした小道があったとのことですので、利用に問題は無かったのでしょう。

10数年前のことですが、「大倉山公園のどこかに海軍の掘った防空壕が残っているらしいが、場所を知りたい」と横浜市の担当者から問い合わせを受けたことがあります。筆者は当時回答できませんでしたが、歓成院裏山の防空壕がそれでしょう。

戦争中に掘られた防空壕の穴は今でも各所に残っていますが、大半はもろくて非常に危険です。山の急斜面など、港北区内には大雨による崖崩れ等が心配される場所が各地にあります。危険箇所は、「港北区土砂災害ハザードマップ」(平成26年12月作成)に記されています。普段生活している地域に危険な場所がないか、確認しておきたいものです。

記:平井 誠二(公益財団法人大倉精神文化研究所研究部長)

(2015年9月号)

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