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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第209回 早渕川の改修

2016.05.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北3』(『わがまち港北』出版グループ、2020年11月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


先日、早渕川(はやぶちがわ)の散策をしました。満開の菜の花に桜吹雪が降り注ぎ、暖かい日差しの中で水面(みなも)が輝いていました。

早渕川は青葉区美しが丘西に源を発し、都筑区(つづきく)を横断し、高田(たかた)と新吉田(しんよしだ)の間を流れて綱島まで延長13.7㎞、鶴見川の支流の1 つです。高低差が少ない早渕川は、かつては細かく蛇行(だこう)していた上に、上流から下流まで川幅が狭いままだったことから、洪水が多発して、鶴見川と同様に暴れ川といわれていました。

港北区域の詳しい地形が初めて地図に描かれたのは、明治14 年(1881 年)に陸軍が測量した迅速測図(じんそくそくず)です。それを見ると、鶴見川や矢上川(やがみがわ)が細かく蛇行しているのに対して、早渕川はすでに流路がほぼ直線になっています。鶴見川が昭和20 年代、矢上川が大正年間の改修工事で流路が直線化されるのに対して、早渕川は江戸時代に改修されていたのです。工事しやすい地形だったのでしょうが、緊急性も高かったのでしょう。

ちなみに、迅速測図は、関東平野迅速測図、歴史的農業環境閲覧システムなどのWeb サイトで閲覧出来ます。これらのサイトでは、現在の地図情報と重ね合わせた図も見られます。調べてみると、早渕川は峰大橋(みねのおおはし)の辺りから鶴見川合流点まで、明治期も現在も、幅こそ違え同じ場所を流れていることが分かります。

早渕川の改修は流域村々の悲願でした。江戸時代から近代まで度々請願が行われていますが、筆者が調べた限りでは、港北区域における大きな改修は、これまでに3 度実現しています。

最初の改修は、『吉田沿革史』によると、享保17 年(1732 年)のことです。幕府の御普請(ごふしん)により、堀浚(ほりさらい)(浚渫[しゅんせつ])、瀬違い(せちがい)(流路変更)、川幅の切り拡げなどの工事が行われています。この享保の瀬違いより前の流路は分かりません。しかし、現在の綱島西四丁目の一部は、かつて「川向」(かわむかい)と呼ばれた新吉田の飛び地でした。新吉田あすなろ地区の一部が早渕川の対岸綱島側に張り出しているのはその名残です。その下流側では、逆に新吉田側の「三歩野耕地」(さんぶやこうち)が綱島上町(つなしまかみちょう)になっています。瀬違いで流路が変り、対岸に取り残された場所と思われます。

2 回目の改修は、昭和12~14 年(1937~39 年)の耕地整理です。『港北百話』によると、京浜工業地帯の発展に伴い、工業用地の確保と農業生産性の向上を目的として、早渕川流域の中川(都筑区)、高田、新吉田、日吉本町、箕輪(みのわ)、南北綱島の7 地区545 町歩の耕地整理を実施したとのことです。これにより、新たに御霊橋(ごりょうばし)が架けられ、峰大橋までの流路が現在と同じ場所になり、両側の耕地が短冊型にそろえられました。

最後の改修は、港北ニュータウン開発にそなえた昭和42~57 年(1967~82 年)の拡幅と護岸工事です。この時、御霊橋より上流の流路も直線になりました。この工事では、それまであった堤防の内側(街の側が堤内[ていない]です)に大規模な堤防を新設し、その後で古い堤防を取り壊して川幅を拡げました。こうして早渕川は、ほぼ現在の姿になりました。

現在、早渕川の港北区域部分には、上流側から御霊橋、稲坂橋(いなさかばし)、中里橋(なかざとばし)、高田橋、峰大橋、吉田橋、新川橋(しんかわばし)、三歩野橋(さんぶのばし)と8 つの橋が架かっていますが、これらはいずれも昭和48~57 年(1973~82 年)に架けられたものです。ちなみに、「三歩野」は、橋の名は「さんぶの」ですが、地名は「さんぶや」と読みます。

迅速測図を見ると、明治前期までは2 つの橋しかなかったようです。峰大橋と、もう1 つが今は無き念仏橋です。峰大橋は日吉や綱島方面と新吉田、念仏橋は高田方面と新吉田を結んでいました。

念仏橋は、耕地整理によって、その役割を御霊橋に譲り、撤去されました。以前に、国土地理院の空中写真閲覧サービスの試験公開を紹介しましたが(第80回参照)、現在は地図・空中写真閲覧サービスとなり、たくさんの空中写真が手軽に見られるようになりました。その中に、陸軍が撮影した「整理番号C31、コース番号C3、写真番号36」という空中写真があります。新吉田東の小股昭(こまたあきら)さんに教えていただきました。撮影年月日不詳ですが、耕地整理が進んでいる状況や、御霊橋がまだ架けられていないこと、御霊谷戸(ごりょうやと)から高田側の倉田屋前に抜ける古い道が残っていることなどから、昭和13、14 年頃の撮影と思われます。耕地整理で撤去されるこの古い道が早渕川を横切っている場所、現在の稲坂橋のすぐ上流側の所に、江戸時代から架けられていた念仏橋が写っています。

記:平井 誠二(公益財団法人大倉精神文化研究所研究部長)

(2016年5月号)

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