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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第212回 石野瑛と武相中学校-終戦秘話その21-

2016.08.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北3』(『わがまち港北』出版グループ、2020年11月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


終戦秘話も今回で21 回目となりました。「シリーズわがまち港北」最初の終戦秘話(第8 回)では、大倉精神文化研究所創立者の大倉邦彦が、昭和18 年(1943 年)の開校を目指して設立準備を進めていた旧制神奈川高等学校のことを書いています。この計画は戦局の悪化によって幻に終わりましたが、大倉邦彦が高校をつくろうとしていたのとほぼ同じ頃、港北区に旧制中学校をつくろうとしていた人物がいました。石野瑛(いしのあきら)氏(1889~1962 年)がその人です。

石野瑛氏は、歴史学者・考古学者として広くその名が知られていますが、仲手原(なかてはら)にある武相(ぶそう)中学校・高等学校の創立者でもあります。もともと石野氏は、明治38 年(1905 年)、16 歳の時に三浦郡尋常第二葉山小学校(現、葉山町立葉山小学校の前身)の準訓導(じゅんくんどう)となってから、小学校の訓導、校長、実業補習学校の校長を務めた後、捜真(そうしん)女学校や関東学院、横浜第二中学校(現、神奈川県立横浜翠嵐[すいらん]高校)などで教鞭(きょうべん)を取り、長く教育の道を歩んで来た人でもありました。郷土史研究を志す一方で、石野氏にとって自身の教育的理想を実現する学校をつくることは、教育者として長年の夢だったのです。

石野氏が学校設立に向けて動き出したのは、昭和17 年(1942 年)のことです。この頃、石野氏は妻と死別し、さらに教育者としても研究者としてもさまざまな問題に直面していました。普通の人であれば心が折れてしまいそうな状況ですが、これを一つの機運とみた石野氏は、かねてからの念願であった学校設立に専念することにします。

石野氏は当時、神奈川区岡野町(現、西区岡野)に住んでいましたが、新しい学校は当時区内に一校も中学校がなかった港北区につくることを決めます。学校には広い敷地と校舎が必要です。校舎を建てるにはお金もかかります。そこで昭和17 年2 月2 日、石野氏は横浜二中の同僚で、当時小机に住んでいた小松祐茂氏に港北区内で空いている大きな建物がないか尋ねます。その時、小松氏から教えられたのが旧大綱小学校篠原分校の校舎でした。この建物は、昭和14 年(1939 年)4 月1 日に港北区が出来た時の区役所仮庁舎でしたが、区役所は菊名に新庁舎を造って、昭和17 年(1942 年)1 月15 日に移転し (第124回参照)、空き家となっていました。石野氏はこの建物を入手するべく東奔西走(とうほんせいそう)し、同年2 月27 日付けで建物払い下げの認可を得ます。

石野氏は新しい学校を武相中学校と名づけました。かつての武蔵国(むさしのくに)・相模国(さがみのくに)の山野(さんや)が一望出来る丘の上の学校として、また美しい丘陵(きゅうりょう)の自然と長い歴史を持つ郷土に育つ青少年たちの教育の殿堂(でんどう)の名として、自然に生じたものだったと石野氏は言います。武相中学校の設立認可申請書は、昭和17 年2月25 日に神奈川県知事宛に提出され、同年3 月8日には認可申請中として生徒の募集を開始しました。4 月2 日には岡野小学校の講堂に応募者約800人を集めて入学試験が行われます。

そして4 月18 日、試験に合格した第1 期生220名に対して、払い下げの建物を転用した富士塚(ふじづか)校舎(刀鍬舎[とうしゅうしゃ])への集合がかけられました。この日はアメリカ軍の日本本土に対する初めての空襲(ドーリットル空襲)が行われたのと同じ日です。この空襲のために登校出来なかった生徒もいました。学校に集まった生徒たちの真上には、丸に星の印をつけたB-25爆撃機が飛んでいきました。その高度は兵士の顔が見える程低かったそうです。生徒たちは当初、日本軍の飛行機だと思い、手を振って喜んでいましたが、それと気づいて地に伏せて事なきを得ました。この日、石野氏は県庁に行っており、学校にはいませんでしたが、その自伝の中で、生徒たちは丘の上の菜の花畑に立って少年らしいさざめきを立てたが、矢作教嘱(やはぎきょうしょく)が生徒たちを校庭の木蔭(こかげ)にすくませたと書いています。

この矢作教嘱とは、富士塚校舎が建つ場所の地主であった矢作乙五郎(おつごろう)氏と思われます。篠原町(しのはらちょう)に住んでいた矢作氏は、武相中学校創立時には監事(かんじ)であり、昭和18 年から28 年(1953 年)までは先生でもありました。

矢作氏は、昭和4 年(1929 年)に少年団日本連盟(現、ボーイスカウト日本連盟)に登録された、神奈川愛道健児団(かながわあいどうけんじだん)の代表者としてその名前が確認できます。また、少年団日本連盟の機関誌『少年団研究』への寄稿もあり、そこから上海(しゃんはい)でも少年団を指導していたことがわかります。地域内外の青少年教育に携わる身として、矢作氏と石野氏が共鳴(きょうめい)したところは大きかったのでしょう。

さて、生徒たちの学校生活は、昭和17 年4 月から始まりましたが、学校の設立認可はまだ下りていませんでした。しかも同年5 月18 日、校地の狭さと丘続きの地形が学校用地として妥当(だとう)でないとして再考(さいこう)を求められ、認可は先送りとなります。もし認可が半年以上遅れれば、生徒たちはその学年を修了できない事態に陥(おち)いります。もはや一刻の猶予もならないこの状況を石野さんはどう打開したのでしょうか。続きはまた次回に。

記:林 宏美(公益財団法人大倉精神文化研究所研究員)

(2016年8月号)

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