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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第214回 芝浦工業大学の大倉山運動場と幻の太尾校舎 ―終戦秘話その23―

2016.10.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北3』(『わがまち港北』出版グループ、2020年11月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


かつて大倉山に、芝浦工業大学の野球場があったことを第206 回で紹介しました。その時、大学へ問い合わせたところ、野球場が出来た昭和26 年(1951年)よりも前、昭和22 年(1947 年)頃の資料があることを教えて頂きました。その中には、実現しなかった「太尾(ふとお)校舎」の建設計画も書かれていると伺い、先日、芝浦工業大学の豊洲(とよす)キャンパスへ行き、その資料を拝見しました。その内容は、戦中・戦後の運動場がたどった歴史や、当時の混乱した社会状況がよくわかるものでしたので、以下にご紹介します。

資料によると、野球場だった場所は、昭和15年(1940年)に芝浦工業大学の前身である東京高等工学校が運動場の敷地として購入したものでした。場所は港北区太尾町八反野(はったんの)2002番地(現、大倉山7丁目)、その広さは8,183坪(約2万7千㎡)でした。運動場は基礎工事完了後、陸上競技トラック・野球場・サッカー場・テニス場・バスケットコートの設営と合宿所の建築が行われ、同年10月に完成します。「大倉山運動場」と名づけられ、体育の授業や部活動に使用されました。

しかし、戦争が激しくなってくると、学生たちは戦力増強のために工場へ動員され、学業どころではなくなります。さらに戦況が厳しくなり、本土空襲が始まると、食糧事情はどんどん悪化していきました。

昭和19年(1944年)3月には、運動場近くに駐屯(ちゅうとん)していた綱島部隊から学校に対して「食糧自給のために運動場の土地を借用したい」と申し入れがあります。学校がこれを承諾すると、すぐに耕作が始まり、運動場は農地へと変へん貌ぼうしました。

戦争が終わると、綱島部隊は解散し、運動場の土地は学校に返されました。しかし、綱島部隊の耕作跡を耕作したいと許可を申し出る人や、学校の了解を得ずに耕作する人もいました。戦後、この辺りには戦争で家を失い都市部から移住してきた人や、疎開(そかい)してきた人も多く、戦中同様に食糧不足は深刻な問題でした。

当時、学校運営の母体であった財団法人芝浦学園(現、学校法人芝浦工業大学)は、戦災で校舎の一部を失っていました。残された校舎で授業は再開したものの、元の運動場復活はまだ遠い夢のような話でした。

そこで学園側は、短かい期間に限って運動場での耕作を認め、代わりに耕作者からは、土地の返還を求めた場合には直(ただ)ちに返還する旨の誓約書を取りました。

学園側は、戦後の混乱が落ち着いた段階で、この場所に運動場と空襲で焼けてしまった芝浦の校舎に代わる太尾校舎を建築する計画を考えていました。計画書を見ると、校舎は木造2階建て、延べ坪1,784坪で、一般教室が30室、特別教室が5室、事務室と教務室が各1室の37室を持つものでした。計画書には青焼きの敷地配置図も付いており、逆コの字型の校舎が描かれています。

運動場と校舎の復興計画は、昭和22年(1947年)になり、ようやく動き出します。学園側はこの辺りの農地管理を担(にな)っていた太尾農地委員会へ、復興計画と自作農創設特別措置法(じさくのうそうせつとくべつそちほう)による買収(ばいしゅう)からの除外指定を申請します。自作農創設特別措置法は、地主が所有する小作地(こさくち)を国が買い取り、小作人に安く売り渡すことで自作農の創設を進めたものです。戦時中には、運動場などの学校用地が農地に使用されたケースも多く、それらの土地が措置法で買収されることもありました。

学園側の申請に対して、太尾農地委員会の上部機関と見られる港北地区農地委員会は、申請の却下を通知します。さらにそれから程なくして、この土地の買収計画が公表されました。学園と耕作者が地主と小作人の関係にあり、この場所は小作地だと判断したのです。学園側としては恩情が仇(あだ)となったようなもので、買収計画は当然受け入れられません。学園側は買収計画に異議を申し立てますが、港北地区農地委員会は、学園の計画が運動場と校舎のどちらを作りたいのかはっきりしないこと、この場所は鶴見川の洪水(こうずい)の被害を受けやすく、校地には向かないことなどを理由に申し立てを却下しました。

納得できない学園側は、さらに神奈川県に買収計画の取り消しを訴えます。港北地区農地委員会の言い分に対しては、大学の運動場用地はこの場所だけであり、まずは運動場を元に戻す予定であること、運動場ならば水害が起きても大した被害はなく、すぐに復旧が可能であること、鶴見川の河川(かせん)改修(1947~52年)が終了すれば、校地にふさわしい場所になるはずなので、それを待って校舎を建設する予定であることなどを主張しました。そして昭和23年(1948年)9月、県から運動場としての保有が認められます。

その後、この場所は大学の野球場となりますが、残念ながら太尾校舎は建設されませんでした。土地の保有が認められて以降のことは資料がなく、校舎の計画が立ち消えになった正確な理由はわかりません。しかし、もし太尾校舎が出来ていたら、きっと大倉山の町の歴史は大きく変わっていたでしょう。運動場跡地近くの港北高校や太尾小学校のあたりは、いずれ大学キャンパスとなり、大倉山駅から鶴見川に向かうエルム通りには、ギリシャ風の建物とは趣(おもむ)きの異なる学生向けの飲食店が立ち並び、今とはまた違う賑わいを見せていたかも知れません。想像は膨(ふく)らみます。

記:林 宏美(公益財団法人大倉精神文化研究所研究員)

(2016年10月号)

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