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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第215回 港北の歴史大ロマン

2016.11.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北3』(『わがまち港北』出版グループ、2020年11月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


先日、港北区民ミュージカルVol.14「コネクトCONNECT」(港北芸術祭参加)を見ました。今年のテーマは綱島の再開発と住民の絆(コネクト=つながること)でした。綱島温泉や日月桃(じつげつとう)が重要なキーワードになっています。以前には、天然氷製造やスケート場経営の話、大倉山記念館を造った大倉邦彦をモチーフにした作品もありました。潤(じゅん)一郎氏の脚本は、毎年港北区内の歴史や文化をモチーフにしていますが、毎回その豊かな想像力から紡(つむ)ぎ出された不思議な世界と魅惑のストーリー、出演者の熱演に魅了されます。その興奮冷めやらぬ中で、この連載もいつもの手堅い(?)内容から、今回は少し想像の翼を広げてみることにしました。

港北区域の歴史をたどっていくと、日本史を左右しそうな大きな出来事がいくつかあります。

1つは杉山神社です(第51~53 回参照)。古代の都筑郡(つづきぐん)にあった杉山神社は、強い霊験(れいげん)があり、横浜市域で唯一京都にまでその名が知られ、10 世紀の『延喜式(えんぎしき)』に記載された式内社(しきないしゃ)でした。杉山神社を祀っていた氏子達は、京都の朝廷と縁が深い一族だったようです。

この杉山神社は、江戸時代には73 社にまで増え、どこが本社か分からなくなりました。一説には、『古語拾遺(こごしゅうい)』や、茅ヶ崎(現都筑区、以前は港北区)の杉山神社に伝わる社伝や系図等を論拠として、阿波(あわ)(徳島県)から安房(あわ)(千葉県)に移り住んでいた忌部氏が、東京湾を渡り鶴見川を遡上(そじょう)し、杉山神社を勧請(かんじょう)したと考え、式内社は茅ヶ崎にあった可能性が高いともいわれています。しかし、安房に忌部氏が定住していたことについて、専門家はその確証を発見出来ていません。もし、忌部氏が都筑郡に居たことが論証出来れば、安房に忌部氏が定住していたことの傍証(ぼうしょう)となり、日本の古代史における大発見となります。

古代の律令制(りつりょうせい)がくずれて荘園制(しょうえんせい)に移行していくと、在地領主や武士団が勢力を張るようになり、やがて中世の鎌倉時代を迎えます。それから150 年程後、鎌倉幕府に終止符を打つのに功績があったのが、新吉田の若雷(わからい)神社だという伝説があります(第161回参照)。

1333 年、新田義貞(にったよしさだ)は護良親王(もりよししんのう)を奉じ、上野国新田荘(こうづけのくににったのしょう)(群馬県)で挙兵すると、鎌倉を目指して進軍しました。しかし新田軍は、日照りによる水不足で、新吉田の辺りで動けなくなりました。その時、神雨を降らせて新田軍を救ったのが若雷神社の神様でした(伝説ですが)。若雷神社の霊験が無ければ、新田軍は鎌倉幕府を滅ぼすことが出来ず、室町幕府の成立は遅れ、日本の歴史は変わっていたでしょう。

それから160 年後、室町幕府の力が衰えると、下克上(げこくじょう)の戦国時代になります。通常、戦国時代は1467年の応仁(おうにん)の乱または1493 年の明応(めいおう)の政変に始まると言われていますが、下山治久(はるひさ)『横浜の戦国武士たち』(有隣新書)には「横浜の戦国時代は、太田道灌(おおたどうかん)が小机城を攻めた文明10 年(1478)から始まるとも言われている」と書かれています。

歴史に「もしも」とか「たら」「れば」はありませんが、もしも忌部氏が港北の地に移住していたら...、若雷神社の神雨が降らなかったら...、太田道灌が小机を攻めなかったら...、想像の翼を広げると、歴史を学ぶのがより楽しくなります。

最後に真面目な話を1つ。

港北の実証的な歴史研究は、石野瑛(あきら)氏(第212回参照)や戸倉英太郎氏に始まります。戸倉英太郎氏は、明治15 年(1882 年)に福岡県で生まれました。余談ですが、その2 ヵ月後、隣の佐賀県で大倉邦彦が生まれます。

戸倉氏は、学校教員を経て、大正7 年(1918 年)頃から浦賀造船所(横須賀市)の社員となり、川崎や横浜に住むようになりました。戦後、還暦を過ぎてから歴史研究に目覚めます。横浜北部地域で丹念な現地調査を重ねて、その研究成果を『度会久志本奥椁(わたらいくしもとのおくつき)』(1953 年)から、『権現堂山(ごんげんどうやま)』(1961 年)まで、さつき叢書(そうしょ)8 冊にまとめました。戸倉氏は、これらの本を全て自費出版し、関係者や歴史に関心を持つ人達に無償で配りました。

当時の横浜市では、開港100 年を記念して昭和29年(1954 年)から『横浜市史』の編纂(へんさん)を開始していましたが、北部地域の歴史研究は手薄でしたので、さつき叢書は貴重な研究成果となりました。中でも、第5 編となる『杉山神社考』(1956 年)は、式内社杉山神社に関する初めての本格的な研究として、『横浜市史』に全面的に取り入れられ、現在でも杉山神社研究の基本文献であり続けています。

戸倉氏は昭和41 年(1966 年)84 歳で没しました。今年は、『杉山神社考』刊行60 年、没後50 年の記念の年です。

記:平井 誠二(公益財団法人大倉精神文化研究所研究部長)

(2016年11月号)

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