第22回 道切りの大蛇
- 2000.10.01
文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
昔の人々は、村の外から疫病(えきびょう)や災厄(さいやく)が村内に入り込むのを防ぐために、村の出入り口で祈祷(きとう)やまじないをしました。これを民俗用語で「道切り(みちきり)」といいます。道切りは、全国各地で様々な形態で行われ、その名称も多様でした。港北区域では、「注連引き(しめひき)」といわれる行事がそれです。注連(しめ)とは、注連縄(しめなわ)のことで、これを張って村内を神聖な場所にしました。
菊名や篠原では、毎年1月中旬、5月中旬、9月中旬に、主要道路の村境に稲藁(いなわら)で大蛇(だいじゃ)の形に編んだ注連を跨(また)がせ、道の両側に竹の柱を二本立て、これに頭と尻尾を結び、胴体中程に寺社のお札を下げ、尻尾へは樫の木で作った剣をぶら下げました。そして、各家にも同じ札を配り、人々は年番の家に集まり、お祭りをしました。すべてが終わると大蛇は取り払われて、鶴見川に流されました。
新羽(にっぱ)の中之久保(なかのくぼ)では「注連引百万遍(しめひきひゃくまんべん)」といいました。男たちが大蛇を作り、女たちが念仏を唱えて悪疫退散を祈りました(これについては、次回に詳しくお話しします)。新田(にった)の「拒ぎ念仏(ふせぎねんぶつ)」「雹祭(ひょうまつり)」、吉田の「防ぎ念仏」「七五三引念仏(しめひきねんぶつ)」、高田(たかた)の「祈祷念仏(きとうねんぶつ)」も同様の行事であったようです。
大曽根では、年中行事ではありませんでしたが、昭和の初め頃まで、近隣の村に疫病が発生すると藁で大蛇を作り、村境の道端の木に巻き付けて疫病除けをしていました。
このように、道切りに稲藁の大蛇を使うのは、蛇が農耕神として信仰されていたことによります。
道切りと同様の行事で、退散させる災厄が、農業の害虫の場合は、特に「虫送り」といいました。区域の村々でも夏の年中行事として行われていました。村中総出で松明(たいまつ)を持って歩き回り、最後は鶴見川に虫を追い払うことが多かったようです。
昔の人々は、農耕を生業(なりわい)として、村単位で生活していました。ワクチンや殺虫剤が無かった時代には、村の中から災厄(さいやく)を追い出すためには、このような呪術的な方法に頼るしかなかったのです。
記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)
(2000年10月号)