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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第220回 12年に一度の霊場巡り―その8―

2017.04.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北3』(『わがまち港北』出版グループ、2020年11月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


前回の、都筑橘樹酉歳地蔵菩薩霊場(つづきたちばなとりどしじぞうぼさつれいじょう)の続きです。

10番札所 興禅寺(こうぜんじ)(天台宗)

御詠歌(ごえいか)  道しばを  ふみわけきつる  愛宕山(あたごやま)

またも新たに  おがむ御仏(みほとけ)

 高田町(たかたちょう)の円瀧山光明院(えんりゅうさんこうみょういん)興禅寺は、仁寿(にんじゅ)3年(853年)慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)の開山と伝える古刹(こさつ)です。現在の興禅寺は南側に参道がありますが、かつては東側斜面に山門、参道があり、芝草に覆(おお)われた境内(けいだい)を抜けて、斜面を登り切った辺りに地蔵堂と愛宕社がありました。江戸時代の『新編武蔵風土記稿』によると、地蔵堂は文化11年(1814年)に一度焼失したと記されています。その後再建されましたが、高田小学校前の道路を整備した時に取り壊されました。延命地蔵(えんめいじぞう)は、現在本堂に祀まつられています。

11番札所 真福寺(しんぷくじ)(曹洞宗)

御詠歌  苦竟山(くぎょうざん)  子安(こやす)地蔵と  あほぐべし

あまねく慈悲の  尽(つき)ぬなりけり

 下田町(しもだちょう)の下田山真福寺は、17世紀中頃に欄室関牛(らんしつかんぎゅう)が開山しました。山号は、古くは駒橋山(こまがはしざん)と号していました。下田地蔵尊の名でも知られています。御開帳(おかいちょう)の子育延命地蔵(こそだてえんめいじぞう)は、御詠歌にあるように、かつては「子安(こやす)地蔵」とか「子安延命地蔵」と呼ばれていました。子安地蔵は、4月から7月まで江戸やその周辺を一夜ずつ宿を取りながら廻ったことから「一夜地蔵」とも呼ばれていました。自宅に一夜預かって念仏をすると子宝に恵まれるといわれ、男の子が欲しい時は白色、女の子の時は赤色ののぼりを寺から借りて帰り、子どもが生まれると2本にして返したそうです。

12番札所 保福寺(ほふくじ)(曹洞宗)

御詠歌  六道(ろくどう)の 辻のまよひも  導きて

我等を助け  救ひたまへや

 日吉四丁目の谷上山(やがみさん)保福寺は、小田原北条氏の家臣中田加賀守(なかたかがのかみ)が開基となり16 世紀後半に小机の雲松院(うんしょういん)の末寺として開山しました。
 山門を入ると、右手に昭和59年(1984年)建立(こんりゅう)の地蔵堂があります。堂内の子育延命地蔵は、延宝(えんぽう)5年(1677年)に造立(ぞうりゅう)された身の丈(たけ)約5 尺(しゃく)(約1.5m)の石像です。自分の体の悪いところと同じ部分を撫でると病が治るとの評判から、別名「おさすり地蔵」とも呼ばれています。
 余談ですが、"廻(まわ)り地蔵"の話をしておきましょう。一体の地蔵を厨子(ずし)と呼ばれる木の箱に入れて、信者の家から家へと順に持ち廻る民俗行事を、"廻り地蔵"といいます。真福寺には、厨子が2つ現存します。地蔵は3体が安置されています。前述した一夜地蔵は、巡行地蔵(じゅんこうじぞう)ともいわれ、本堂の左脇陣(わきじん)に安置されています。常にお寺にいる秘仏の地蔵は、留守番地蔵(るすばんじぞう)と呼ばれて、本尊如意輪観世音菩薩(にょいりんかんぜおんぼさつ)の左脇に安置されています。もう1 体、小さい地蔵が巡行地蔵の右脇に安置されています。かなり傷みがありますから、かつてはこの地蔵も巡行地蔵だったかも知れません。
 寛延(かんえん)3年(1750年)頃に始まった真福寺の廻り地蔵は、昭和42年(1967年)まで続いていました。
現在、新羽町(にっぱちょう)の西方寺(さいほうじ)に安置されている百万遍念仏(ひゃくまんべんねんぶつ)の地蔵は、平成8年(1996年)まで中之久保(なかのくぼ)地区で廻り地蔵の本尊として使われていたもので、背負い紐(ひも)の付いた厨子に収められています。
 廻り地蔵は全国各地で行われていましたが、その多くは先の大戦前後に中断しました。しかし、横浜には現在も続く廻り地蔵があります。
 平成25年(2013年)、鶴見川流域の廻り地蔵(港北区、緑区、都筑区)と、下飯田(しもいいだ)の廻り地蔵(泉区)が横浜市の無形民俗文化財に指定されました。
 鶴見川流域では、港北区、緑区、都筑区の3ヵ所で廻り地蔵が続けられています。港北区の保存団体は、新羽町三谷戸(にっぱちょうさんやと)廻(まわ)り地蔵講(じぞうこう)です。三谷戸とは、新羽駅の西側に位置する中井根(なかいね)、向谷(むかいやと)、久保谷(くぼやと)の3つの谷戸です。
 地蔵を預かった家では、毎朝お茶、ご飯、線香を供えます。預かる期間は定まっておらず、短ければ1週間、長い時は3年にも及ぶそうです。次の家に運ぶ時はお賽銭(さいせん)を添えて、家の主人が厨子を背負って歩いて運びます。三谷戸の廻り地蔵は、特定の寺に帰ることはありません。
 新羽町付近は、1990年代に横浜市営地下鉄ブルーラインと宮内(みやうち)新横浜線道路が開通して、急速に市街地化が進みましたが、港北区域の中では旧家の蔵や、地域の伝統行事などが比較的よく残されている地区です(第211 回参照)。

記:平井 誠二(公益財団法人大倉精神文化研究所所長)

(2017年4月号)

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