閉じる

大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第224回 横浜ゆかりの歌手 渡辺はま子さんと菊名 ―終戦秘話その24―

2017.08.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北3』(『わがまち港北』出版グループ、2020年11月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


平成27年(2015年)1月、港北区出身の女優、五大路子さんが主催する劇団「横浜夢座」では、劇団の創立15年と戦後70年を記念して、「奇跡の歌姫『渡辺はま子』」を14年ぶりに再演しました。渡辺はま子さんの名前を聞いてピンと来る方は少なくなってきているかも知れませんが、はま子さんは戦前・戦後に活躍された歌手で、昭和26年(1951年)の第1回紅白歌合戦では紅組のトリを務めた大スターです。その名前のとおり、横浜で生まれ育ったはまっこ(浜っ子)で、横浜ゆかりの歌手としても知られています。

舞台「奇跡の歌姫『渡辺はま子』」は、戦後、フィリピンのマニラ郊外、モンテンルパのニュー・ビリビッド刑務所でBC級戦犯として収監されていた100人を越える日本人たちと、当時国交がなかったフィリピンに単身で赴き、彼らの減刑・釈放をフィリピン政府に嘆願した渡辺はま子さんとの交流、彼らが獄中で遠い祖国を思い、望郷の念を込めて作った歌「あゝモンテンルパの夜は更けて」の誕生、そして彼らの帰国が実現するまでを描いた物語です。

歌は昭和27年(1952年)に、渡辺はま子さんと宇都美清さんの歌声で吹き込まれてレコード化され、当時20万枚を売り上げる大ヒットとなりました。

横浜夢座による再演から2ヶ月後、第7回港北ふるさと映像祭で「ダイジェスト 奇跡の歌姫『渡辺はま子』」が上映されました。その映像祭のチラシを見ていた時、作品説明の冒頭の1 文に目を奪われました。「子どものころ、菊名に住んでいた奇跡の歌姫『渡辺はま子』」と書かれているではありませんか。港北区に住んでいたことがあるとは、今まで知りませんでした。渡辺はま子さんの明るく晴れやかな歌声が大好きな筆者としては、是非詳しいことが知りたいと思い、調べてみました。

渡辺はま子さんは、昭和53年(1978年)にフォト自叙伝『あゝ忘られぬ胡弓の音』を出版しています。そこには、戦前から戦後にかけて、菊名の山の上にある家に住んでいたことが書かれていました。また、実際に菊名の自宅の前で撮影した写真も掲載されていました。先のチラシでは菊名に住んでいたのは「子どものころ」と書かれていましたが、はま子さんは明治43年(1910年)生まれですので、実際に菊名に住んでいたのは、既に成人した後だったようです。

渡辺はま子さんは、父と母、そして兄と姉の5人家族でした。太平洋戦争が始まる直前の昭和16年(1941年)9月、当時、本牧中学校で書道を教えていたはま子さんの父、近蔵さんが脳溢血で倒れ、その3日後に息を引き取りました。公演を終えて帰宅したはま子さんは、父親の葬儀の日に菊名の家が本牧中学校の生徒でいっぱいになったことが悲しい思い出であったと述懐しています。しかし一方で「父の死後、12月8日から起きた長いむごい戦争を知らないで、かえって良かったのかも知れない」とも述べています。

戦争が始まると、兄が出征したため、自宅には女性だけが3人残されることとなり、毎日空襲に怯えながら暮らしていました。仕事で菊名から渋谷に向かう電車の30分間ですら何事が起きてもおかしくないという不安との戦いでした。苦労して放送局に辿り着いても時間に間に合わず、既にレコードをかけて対応した後だったこともあったそうです。

その後、はま子さん自身も歌手として中国の上海へ慰問に向かうこととなります。そこで、はま子さんは母と姉を長野県上田市の別所温泉近くの農家へ疎開させ、菊名の自宅は軍の寮として提供したのだそうです。

はま子さんは慰問先の中国天津で終戦を迎えました。その後、8ヶ月を捕虜として過ごします。その間には帰国を待つ日本人のため、慰問公演も行いました。

日本へ帰国したのは翌年5月4日のことでした。引き揚げ船で佐世保に到着し、久しぶりに菊名の自宅へ戻ると、母と姉も既に戻っていました。

しかし、兄は何とか戦地から生きて帰って来ましたが、重度の栄養失調のため、帰港先の佐世保ですぐに入院することになりました。はま子さんは義理の姉とともに兄と対面しましたが、その変わり果てた姿を目の当たりにして、兄が助かる病人ではないことを知ります。兄と母を一目会わせてあげたいと思うはま子さんは、母や兄の友人と相談をするため、一度横浜へ戻ります。しかし、その後を追うかの如く、悲しい訃報が届けられました。

はま子さんがいつ頃まで菊名で暮らしていたのかは調査中ですが、昭和22年(1947年)1月に米軍の通訳をしていた加藤貞治さんと結婚した時には、まだ菊名に住んでいたようです。その後、昭和25年頃には、横浜市中区本牧町に住んでおり、「あゝモンテンルパの夜は更けて」が発売された昭和27年当時は鎌倉に転居していたことがわかっています。

渡辺はま子さんが暮らした菊名の家の場所は、昭和15年版の『レコード音楽技芸家銘鑑』によると「横浜市菊名町宮ヶ谷382」と書かれており、横浜線の線路沿いの菊名記念病院に程近い高台にあったようです。

記:林 宏美(公益財団法人大倉精神文化研究所研究員)

(2017年8月号)

シリーズわがまち港北の記事一覧へ