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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第226回 港北のお城と館 ―その1、中田加賀守館―

2017.10.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北3』(『わがまち港北』出版グループ、2020年11月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


昨年12月に、パシフィコ横浜でお城EXPO2016が開催され、港北区からは小机城と篠原城の紹介展示をしました。城郭復元マイスター二宮博志さんが作られた小机城の精巧な模型「城ラマ」も展示されました。今年4月6日(城の日)には、公益財団法人日本城郭協会によって、小机城が続日本100名城に選ばれ、それを記念して8月20日に小机城フォーラムが開催されました。さらに今年も、パシフィコ横浜でお城EXPO2017(会期12月22日~24日)の開催が決まっています。

お城ブームに沸く港北区ですので、今回から港北区域にあったお城の紹介を始めます。ところで、そもそも港北区内にお城はいったい幾つあったのでしょうか? 区内に近世のお城はありませんが、中世のお城は沢山ありました。お城とはいっても、中世のお城の定義からいえば、砦、館、屋形、屋敷などと呼ばれたものもお城に含めて考えられます。天守も石垣も、水を湛えたお堀も無いので、私たちの良く知っているお城のイメージとはかなり異なっています。今回取り上げる中田加賀守館が矢上城とも呼ばれたりするように、伝えられている名称も多様です。

埋蔵文化財センター発行の『埋文よこはま』33号(2016年3月)は、横浜の中世城郭を特集しています。これによると、「横浜市内の中世城郭は、丘陵や台地の地形を巧みに利用した丘城と呼ばれるもので、14世紀末から16世紀後半にかけて築造されたと考えられて」いるそうです。遺構が確認されている城郭は市内に7ヵ所、その内の2ヵ所は小机城と篠原城です。その他に、遺構未確認のものが33ヵ所あり、港北区内にはその内5ヵ所が挙げられています。あわせて7ヵ所になりますが、実はこの他にも城や館の跡と考えられるものが幾つもあります。

港北区域の中世城郭について、最も数多く記録しているのは、今から約200年前の江戸時代後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』(以下、風土記稿と略称)です。数え方によりますが、風土記稿には10~12ヵ所の記述がありますので、まずはその記載順に紹介していきましょう。

1.中田加賀守館

矢上城ともいいます。風土記稿には、矢上村の中ほど、熊野神社の後背の陸田(畑のこと)辺りに、保福寺を建立した中田加賀守が住んでいた館があったと記されています。熊野神社は現在でも日吉五丁目にあります。その裏山ですから、慶應義塾高校の日吉台野球場がある辺りが館跡と思われます。

中田加賀守、名前は記録されておらず不明なのですが、矢上周辺に勢力を張っていた中田氏一族の総領だった人物と考えられています。中田氏は、元々扇谷上杉氏の重臣を務めていた武蔵太田氏の家臣でしたが、加賀守は小田原北条氏の家臣となり、小机衆の1人とされています。矢上周辺に、3万石程度に相当する土地を領有していたそうですが、天正18年(1590年)小田原落城の時に矢上の地で憤死し、保福寺に葬られたと伝えられています。風土記稿(都筑郡川島村の項)は、子の藤左衛門が、知行地の1つだった川島村(保土ケ谷区)の名主になったとも記しています。

江戸時代、中田加賀守の館跡には先祖の墓とされる塚があり、ウツギ(空木)が群生していました。ウツギはアジサイ科の落葉低木ですが、ここのウツギは、触ると必ず奇病に感染してしまうとの言い伝えがあって、村人は誰も近づかなかったと風土記稿は記しています。この話は、『港北百話』にも記されています。

昭和29年(1954年)、中田加賀守の子孫一同はこの丘の上に「保福寺開基 中田加賀守累代墳墓之地」と刻した供養塔を建てました。その碑文によると、日吉台は中田加賀守の屋形跡であり、丘陵一帯の古墳はその先祖の塚であると言い伝えられていました。慶應義塾大学が昭和10年(1935年)に校地整備のために古墳の発掘に着手したところ、加賀守の子孫の家々では災厄が頻発したことから、大学に発掘の中止を請願しました。ところが、昭和26年(1951年)になり再び古墳の発掘が必要になったために、学校当局の厚意で現在地に改葬して、供養塔を建てたとの経緯が刻まれています。この場所は現在立入禁止です。

中田加賀守に関する史料や事績、供養塔の碑文などについては、盛本昌広「戦国期矢上の領主中田氏の動向」(『慶應義塾大学日吉紀要.人文科学』No.15)に詳しく紹介されています。盛本氏の研究によると、「加賀守の館は熊野神社の後方の台地上に以前は存在したが、慶應大学の野球場整備の際に整地され、遺構は野球場の北側に堀切状のものが残っているだけ」とのことです。また、先祖の墓とされる塚も「昭和初年まで存在したが、ハンドボール場(野球場の西南)の造成の際に消滅した」と記されています。

記:平井 誠二(公益財団法人大倉精神文化研究所所長)

(2017年10月号)

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