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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第228回 港北のお城と館 ―その3、小幡泰久屋敷―

2017.12.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北3』(『わがまち港北』出版グループ、2020年11月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


5.小幡泰久屋敷

前回に続けて『新編武蔵風土記稿』(以下、風土記稿と略称)を見ていくと、大豆戸村の項に「小幡泰久屋敷跡」の記述があります。小幡泰久館、小幡屋敷、大豆戸城、大豆戸館、安山城などと呼ばれることもあります。

安山とは、菊名の駅前から本乗寺、八杉神社がある辺りの丘の名前です。安山城という別称は、この地名から来ています。安山の上から真北を向くと、平地の先に大倉山方面がよく見えます。北方の監視に適した立地のように思われます。余談ですが、以前に地元の古老の方から、「安山に大倉精神文化研究所を建てたいとの話があったが、地主との交渉がまとまらなかったので大倉山に建設したのだと聞いている」と伺ったことがあります。記録が無くて確認出来ませんが、事実ならば昭和3年(1928年)頃のことでしょう。

さて、風土記稿によると、小幡泰久屋敷の場所は、大豆戸村の東南部にある八王子社から西へ続く所で、1段5畝余(約450 坪、1,500 ㎡程)の広さだったが、江戸時代後期には既に陸田(畑のこと)になっていたと書かれています。八王子社とは、現在の八杉神社のことです。近くの篠原城(次回紹介予定)脇にあった杉山神社を昭和34年(1959年)に吸収合併して、八王子の八と杉山の杉を取って、八杉神社と改称しました。この八杉神社の脇の急坂を上った辺りに屋敷があったといわれていますが、これまでに遺構調査がなされたことは無く、陸田は宅地化されてしまい、正確な場所は分かっていません。

屋敷の主である小幡泰久について書かれた史料は、風土記稿と『寛政重修諸家譜』(以下、寛政譜と略称)があります。どちらも江戸幕府が編纂したものですが、困ったことに両書は内容がかなり異なっています。

まず風土記稿(将軍への献上本)を見ると、泰久は小田原北条家配下の武士であると紹介しています。そして、大豆戸村に残る古記を引用して、泰久は永禄元年(1558年)に伊豆の土蔵野合戦の時65歳で戦死したと記しています。土蔵野合戦とは、戸倉の合戦の誤りでしょうか? 風土記稿の活字本は「永禄9年」「67歳」としているのですが、誤字(誤植)でしょう。大豆戸村の古記を読みたいのですが、今では失われてしまったようです。

さらに風土記稿は、泰久の子が勘解由左衛門政勝で、泰久・政勝父子が大豆戸の小幡屋敷に住んでいたこと、子孫は太郎左衛門を通名として代々名乗っていること、政勝が旗本小幡家の祖となったことなどを記しています。

寛政譜には、この旗本小幡家の詳しい家系が記されています。まず、小幡泰久の出自として、鎌倉時代の武士で常陸小幡氏の租とされる小幡光重の子孫であるとしています。また、泰久の父久重は小畑と名乗ったが、泰久が小幡に復したこと、泰久は初め今川家に仕え、後に北条家に仕えたことなどが書かれています。これらは風土記稿には無い情報です。

さらに続けて、泰久の子は太郎左衛門泰清、泰清の子が太郎左衛門正俊であり、いずれも北条家に仕えていたと記しています。太郎左衛門を通り名としていることは風土記稿の記述と同じですが、政勝の名は出てきません。

正俊は、小田原落城の後、天正18年(1590年)から徳川家康に仕えて、280石取りの旗本となり、大番を勤めました。隠居後は豊島郡神庭村に住み、寛永19年(1642年)に死去し、大豆戸村の本乗寺に葬られたとしています。ただし神庭村というのは後の蟹ヶ谷村(川崎市高津区)ですから、豊島郡は橘樹郡の誤りです。

墓所となった本乗寺は、天文23年(1554年)に小幡泰久が創建した寺です。前述したように、泰久は伊豆で戦死しました。その遺体は本乗寺境内に埋葬されたと伝えられていますが、風土記稿には、「今は墓石なければ其所を知らず」と書かれています。

風土記稿と寛政譜、どちらの記述が正しいのでしょうか。

寛政譜は風土記稿より詳しいですし、各家から提出した家系を編纂した史料なので、一見正確そうに思われます。古くは、江戸時代前期の寛永18~20年(1641~43年)に幕府が編纂した『寛永諸家系図伝』も、正俊が家康に仕えたとしています。

しかし、『小田原衆所領役帳』には、江戸衆の1人として小幡勘解由左衛門(政勝)の名が記されており、これは風土記稿の記述に合います。さらには、正俊が隠居していたという蟹ヶ谷村にある石造物を調査した深瀬泰旦氏の研究によると、泰久、政勝等の名が刻まれた墓碑があり、本乗寺の過去帳にも政勝の名が記されていると書かれています。

改名した人がいるのか、それとも書かれていない兄弟がいたのか、なぜ風土記稿と寛政譜の記述が違っているのかは、今となっては分かりません。

記:平井 誠二(公益財団法人大倉精神文化研究所所長)

(2017年12月号)

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