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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第229回 港北のお城と館 ―その4、篠原城―

2018.01.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北3』(『わがまち港北』出版グループ、2020年11月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


6.篠原城

港北芸術祭25周年記念として、10月28・29の両日、五大路子さん主演の読み芝居「まぼろしの篠原城」が上演されました。区内在住の堀了介さんのチェロと三橋貴風さんの尺八によるBGMや効果音も舞台の雰囲気を盛り上げていました。村人を守り平和を求めた武士の物語は創作ですが、篠原城は戦国時代に実在したお城です。

『新編武蔵風土記稿』(以下、風土記稿と略称)の篠原村の項に「古城趾」の記述があります。城の名は記されていませんが、通常は地名から篠原城といい、あるいは金子氏が城主であったことから金子城、金子出雲守塁とも呼ばれています。

風土記稿を見ると、篠原村には城山という小名(地名)があります。村の北の端、大豆戸村と境を接する場所です。この城山の地名の由来となったのが篠原城です。

地元には篠原城の場所を示す伝承が残されていますが、発掘調査がなされたことはなく、その正確な場所は長い間不明でした。しかし、平成22年(2010年)、宅地開発に伴って城山の一部で発掘調査が実施され、郭の一部と、上幅8メートル深さ5メートルの竪堀(空堀)、土器などが出土しました。翌平成23年1月29日に発掘調査見学会が開催され、5月には『篠原城址発掘調査報告書』も発行されました。地域の人たちと篠原城と緑を守る会が協力して横浜市へ働きかけたこともあり、市は「横浜みどりアップ計画」の1つとして、平成22年度から26年度にかけて、篠原城の主郭(本丸)一帯の樹林地約0.65ヘクタールを買い取り、保全し活用の検討をしています。

さて、200年程前に風土記稿の調査が行われた際、城趾には4、5段程の芝地(郭の跡か)や、断岸(切り立ったけわしい崖)となっている場所があって、空堀の形も残っていました。城主は、金子十郎家忠かその子孫、あるいは篠原の代官であった金子出雲ではないかといわれていました。

金子十郎家忠とは、平安末期から鎌倉初頭にかけて活躍した武士で、武蔵七党の1つ村山党の有力者でした。武蔵国入間郡金子郷(埼玉県入間市)を本拠地としていましたが、居住地は多摩郡金子村(東京都調布市)など各地にあったといいます。篠原城の築城年代は不明ですが、各地に築かれた金子氏の砦の1つだったのかも知れません。

一方、代官金子出雲は戦国時代の人で、『小田原衆所領役帳』に、三郎殿配下の小机衆の1人として「35貫文 篠原 代官 金子出雲」と書かれています。戦国時代の篠原城は、小机城の東方を守る支城の1つとして小机衆の1人が支配していたことが分かります。風土記稿は、三郎とは北条景虎であるとしていますが、北条幻庵の長男とする説もあります。

また、風土記稿では、村の旧家百姓九兵衛は金子氏で、代々篠原の地に住んでいて、北条氏の家人金子出雲の子孫であり、その先祖は金子十郎家忠につながるとの言い伝えがあるが、旧記を失い分からないと記しています。

この金子氏の氏寺が長福寺です。今は横浜線の線路によって篠原城と分断されていますが、お城の南側、となりの丘の中腹で城と向かい合っています。風土記稿には、当時の本尊は不動尊であり、その他に長さ1尺5寸(約45センチ)の薬師如来像一体が安置されており、この像は昔の代官金子出雲が持っていたものだと村人が言い伝えていると記されています。この薬師如来が現在の本尊です。昭和61年(1986年)に修理を行った際に、胎内より文禄4年(1595年)10月吉日の年記と金子出雲守・同大炊助などの名前が記された木の札が発見され、伝承の正しさが証明されました。金子出雲は、十郎家忠から400年近くも後の武士ですが、この間篠原城はずっと金子氏が支配していたのでしょうか。

永井経男著『横浜七福神』に次の記述があります。大豆戸町の正覚院の「裏山は、戦国時代の城跡であったといわれ、当時この地方に勢力を張っていた小机城主との戦いに敗れた落城時の城主が当山に逃がれ、剃髪して開祖元龍大和尚の弟子となったと伝えられている」。正覚院は、天正元年(1573年)創建と伝えられているので、この伝承が正しいとすれば、長福寺薬師如来の胎内木札が作られる少し前まで、篠原城には別の城主がいて、小机城側がその城主を追い出し金子出雲が新たに城主となったということも考えられます。いずれにしても、天正18年(1590年)小田原落城と共に篠原城も廃城となったようです。

これまで4回の連載で見てきたように、昔の記録は断片的だったり、矛盾していたりして、上手く解釈できないこともあります。しかし、そこに歴史の面白さと、想像力を働かせる余地があります。

記:平井 誠二(公益財団法人大倉精神文化研究所所長)

(2018年1月号)

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