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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第30回 綱島の桃ふたたび-日月桃の今日明日-

2001.06.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


第27回で、港北区内では綱島の町が元気だと書きました。私なりにその理由を考えると、地域の人々が集まれるシンボルがあるから、ということになるのでしょう。綱島の場合は、「桃」がシンボルになります。綱島の桃については、昨年春(第15回)に一度取り上げましたが、今回はその後日談を報告します。

綱島の桃栽培は、明治30年代に池谷道太郎(いけのやみちたろう)氏が始めました。道太郎氏は桃の品種改良にもつとめ、1907年(明治40)に「日月桃(じつげつとう)」という新品種の栽培に成功し、綱島の桃は一世を風靡(ふうび)しました。日月桃の栽培は、1938年(昭和13)の水害で壊滅的な打撃を受け、戦争の影響で生産は中止されました。池谷家ではその後もわずかですが栽培を続けていましたが、1970年頃に最後の一本が枯れてしまいました。これにより、日月桃は絶滅してしまったかと思われました。しかし、1998年(平成10)になり、つくば市にある農林水産省の果樹試験場に二本だけ残されていることが分かりました。

池谷道太郎氏の孫にあたる光朗(みつろう)氏は、現在でも400坪の畑に約50本の桃の木(白鳳という種類です)を栽培していますが、試験場から日月桃の枝を分けてもらい、接ぎ木をしました。翌99年は結実した実がすべて落ちてしまいましたが、「モモ・クリ三年、カキ八年」の言葉通り、3年目の2000年には、8本の日月桃に初めて15、6個の収穫がありました。かつて、最盛期には年間288万個の生産を誇っていたことから見ると、まさに隔世の感がありますが、日月桃はついに復活したのです。今年(平成13年)は約200個の袋かけをされたとのことですから、幾つ収穫があるのか楽しみです。

光朗氏のお話しによると、日月桃は、5月中旬の袋かけから1ヶ月余後の6月中旬に収穫されます。普通のモモが7月中旬の収穫ですから、1ヶ月ほど早い、極早生(ごくわせ)のモモです。かつて、温室等を利用した促成栽培が無かった頃にはこの早さは画期的でした。特に初物(はつもの)が大好きな江戸っ子には大変な評判を呼びました。日月桃は、その生育期間が短いので、サイズが少し小振りですが、実の香りや色つやが良いことが特徴でした。光朗氏は、昨年、数十年ぶりに日月桃を食べられた感想を、往時を思い出して、懐かしくお話し下さいました。

こうして、まぼろしの日月桃は復活しましたが、桃の実が本当のおいしさになるのは、木が10年くらいたってからだそうです。また、現在ある8本の若木の他にも、苗木を栽培しており、将来が楽しみです。

75歳の光朗氏がこのようにがんばられているのは、かつて綱島のシンボルだった桃を通して、地域の人達と共に、綱島の町おこしをしたいとの願いからです。その成果は大いに上がっています。1991年(平成3)に港北区の区の木と花が指定された時、桃は区の花の第2位でしたが、今ならいずれかに指定されるかも知れません。

余談ですが、「綱島桃まつり」のホームページを見ていたら、綱島の桃で造った「日月桃」という焼酎があることが出ていました。この焼酎もぜひ試飲してみたいものです。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)

(2001年6月号)

  • 【付記1】 平成13年は、日月桃は約100個の収穫がありました。しかし、白鳳(はくほう)は、カメムシが大量発生し大打撃を受けたそうです。
  • 【付記2】 綱島の桃栽培は昭和13年(1938)の水害と戦争により栽培が中止されたと書きましたが、たしかに生産量は激減しましたが戦後もしばらくは栽培が行われていました。地元の方の話によると、昭和30年代の水害の頃まで、鶴見川の河川敷にも桃の木が残っていたそうです。
  • 【付記3】 綱島桃まつりで、焼酎「日月桃」を試飲しました。残念ながら、市販はされていないそうです。
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