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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第45回 舞台は大倉山記念館

2002.09.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


横浜市大倉山記念館は、映画やテレビ、雑誌のグラビア写真等の撮影スポットとして大変人気があります。豊かな木々に囲まれた大倉山公園の美しさと、その中にそびえるギリシャ風の建物の重厚(じゅうこう)さ、公共施設としての利用の簡便(かんべん)さなどが理由でしょう。

筆者が知っているだけでも、たとえば映画では、「帝都物語」(1988年)、「RAMPO」(1994年)、「極道の妻たち」、「スパイ・ゾルゲ」(2003年公開予定)などの撮影が行われています。テレビでは、二時間ドラマなどによく使われていますし、織田裕二(おだゆうじ)が弁護士になった「正義は勝つ」(1995年)では裁判所、「仮面ライダーアギト」の最終回(2002年3月)ではスコットランドヤードの建物になっていました。俳優では、石田ゆり子、北大路欣也(きたおうじきんや)、佐藤浩市(さとうこういち)、柴俊夫(しばとしお)、田原俊彦(たはらとしひこ)、中村敦夫(なかむらあつお)、中村雅俊(なかむらまさとし)、雛形あきこ、本木雅弘(もときまさひろ、五〇音順)といった人達が撮影に来ていました。最近では、平成14年(2002)7月24日に発売された柴咲コウのデビューシングル「Trust my feelings」のプロモーションビデオにたくさん映っています。

しかし、こうした撮影は、あくまでも架空の物語の架空の場所として大倉山記念館を使っているのであり、大倉山記念館そのものとして画面に出てくるわけではありません。

そうした中で、かつて大倉山がそのまま舞台になったことがあります。劇作家菅龍一(すがりゅういち)氏に教えていただいたのですが、久保栄(くぼさかえ)の『日本の気象』がそれです。久保栄(1900~58年)は、日本近代演劇の開拓者小山内薫(おさないかおる)に師事し、築地小劇場(つきじしょうげきじょう)に入り、外国の戯曲の翻訳を始め、その後、新劇の劇作家、演出家として活躍しました。代表作『火山灰地(かざんばいち)』は戦前のリアリズム戯曲の最高傑作と評されています。

『日本の気象』は、1952~53年(昭和27~28)に執筆した久保栄最後の戯曲です。『久保栄全集』第4巻に収められていますので、ストーリーを知りたい方は図書館でお読み下さい。

さて、『日本の気象』は全5幕からなり、第1幕の舞台は、昭和20年の夏、場所は海軍気象部分室(現、大倉山記念館)の前庭です。作品に地名は示されていませんが、久保栄は1952年1月2日の日記に「根本順吉氏、ひとりで来訪。大倉山の海軍気象部の話その他を聴いて書きとる」(全集第11巻)とあります。

根本順吉(ねもとじゅんきち)氏は海軍気象部にいた人です。また、第1幕のト書き(とがき)には「東京の西南部を走る郊外電車の沿線に、梅の名所として知られた景勝地。裏山つづきに梅林のある丘のうえには、正面にギリシャふうの破風と柱列の幅のひろい階段をもつ石造建築が(中略)海軍気象部の分室-一部疎開先である」と記されています。

第2幕から4幕までは都心の日本気象台の建物内が舞台です。第5幕は敗戦から5年目の晩秋で、また大倉山です。ト書きには「海軍気象部分室の疎開していた建物は、持ち主の或る精神文化的な事業団の手へ返って、今は図書館になっている」と記されています。海軍気象部のことは前回(第44回)記したとおりです。

『日本の気象』は、劇団民芸(げきだんみんげい)により、1953年5月21日から6月8日まで東京の第一生命ホールで、その後は大阪の毎日会館、京都の弥栄会館(やさかかいかん)で上演されました。全集の口絵写真を見ると、大倉山記念館の正面入り口をそっくりまねて舞台が作られていたことが分かります。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)

(2002年9月号)

付記1 根本順吉氏の追想録と同氏からの聞き取り報告は、『大倉山論集』51輯に掲載してあります。

付記2 久保栄の養女久保マサさんから伺った話によると、『日本の気象』は長い作品なので、上演に時間がかかるため、1953年には完全に上演したのは初日だけで、2日目以降は一部省略したとのことでした。

付記3 「日本の気象」は、2004年2月3日から14日まで、東京演劇アンサンブルにより、51年ぶりに再演されました。

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