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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第52回 杉山神社の有力候補

2003.04.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


前回紹介した延喜式内社(えんぎしきないしゃ)の杉山神社ですが、次に杉山神社の記録が現れるのは、江戸時代のことです。

江戸幕府が1810年から28年にかけて編纂した文献に『新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)』という地誌があります。武蔵国の全ての町村の様子を詳細に知ることが出来るので、当時のことを調べるための最も基本となる文献です。同書には、橘樹郡(たちばなぐん)37社、都筑郡(つづきぐん)25社、南多摩郡6社、久良岐郡(くらきぐん)5社の計73社の杉山神社が記載されています。

これら諸社はいずれも鶴見川流域にあり、その多くは、鎌倉から室町時代にはすでに祀(まつ)られていたと思われます。杉山神社がこのように増加した要因については、主に2つの説があります。第1説は、杉山神社はいつの頃か鶴見川をさかのぼり流域に入植・定着したある氏族(しぞく)が祀(まつ)っていた氏神(うじがみ)であり、一族の勢力拡大に伴って流域各所に末社がつくられたとする説です。第2説は、各地の小土豪(どごう)が統合する際にその中心となった土豪が祀っていた氏神が杉山神社であり、その他の土豪が以前から祀っていた氏神も杉山神社の名に統一されたとする説です。どちらの説にしても、式内社杉山神社を本社として鶴見川流域に拡散したもので、その後の勢力交代などにより、長い年月の間に本社が不明となったものと考えられます。

さて、この73社のうちで式内社杉山神社の有力候補と考えられているのは、①西八朔村(にしはっさくむら、緑区西八朔町)、②大棚村(おおたなむら、都筑区中川町)、③茅ヶ崎村(ちがさきむら、都筑区茅ヶ崎町)、④吉田村(よしだむら、港北区新吉田町)の杉山神社の4社です。いずれも分区される以前の旧港北区(第11回参照)に属しています。

この中で、①は、幕末の府中(ふちゅう)大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)宮司猿渡盛章(さわたりもりあきら)が説き、栗田寛(くりたひろし)『神祇志料(じんぎしりょう)』や『大日本史神祇志(だいにほんじんぎし)』なども押しています。②は、同村出身の栗原恵吉の説です。式内社研究会編『式内社調査報告』で三橋健(みつはしたけし)氏は①か②に惹(ひ)かれる、と記しています。③は、『新編武蔵風土記稿』が「恐ラク当社コソ昔ノ式社ナルヘケレ」と記しています。郷土史の大家(たいか)戸倉英太郎氏も『杉山神社考』でここに比定(ひてい)しています。④は、『新編武蔵風土記稿』の編纂以前よりある説で、同書では疑問視していますが、幕末の神道家斎藤義彦(さいとうよしひこ)や、菱沼勇(ひしぬまいさむ)『武蔵国式内社の歴史地理』(のち『武蔵の古社』と改題)などは有力であると主張しています。『港北区史』は、この他に町田市三輪の椙(杉)山神社の可能性も指摘しています。

いずれの候補社も、鶴見川水系の沖積地(ちゅうせきち)を眼下に望む小高い丘の上に鎮座しています。このことは、杉山神社が鶴見川流域の水害防止と豊作祈願を目的として、農耕集団により祀られてきたことを物語っています。

さて、④新吉田の杉山神社を式内社と考える根拠と、港北区域の杉山神社の現状については次回に。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)

(2003年4月号)

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