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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第69回 終戦秘話-その7- 米ソの暗号を解読せよ!

2004.09.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


戦争末期の昭和19年(1944)9月から20年8月にかけて、大倉精神文化研究所本館(大倉山記念館)に海軍気象部分室が置かれていたことは、一昨年(第44回)紹介しましたが、分室で何が行われていたのかはこれまで全く不明でした。ところが、最近になり色々なことが分かってきましたので、改めて紹介いたします。

『気象百年史』によると、海軍気象部の本部は、東京駿河台(するがだい)のYWCAのビルに置かれ、その他にも神田(かんだ)周辺に多数の分室が作られます。昭和19年6月、海軍気象部は大倉精神文化研究所を最後の拠点とすることに決め、大倉山に第5分室を設置します。大倉山には気象部員によりH字形水平壕(終戦時に約2/3完成)が掘られたそうです。

大倉山に勤務していた気象部員を主人公にした久保栄(くぼさかえ)の戯曲(ぎきょく)「日本の気象」(第45回参照)が、本年2月、51年ぶりに再演され、それがきっかけとなり、元気象部員の根本順吉(ねもとじゅんきち)さんにお会いすることが出来ました。根本さんは、昭和20年の初めから終戦まで、3階の研究室で海霧(うみぎり)の研究をされていました。千島(ちしま)や北海道の海岸には霧が発生することがありますが、それが海軍の作戦行動の妨げになるので、発生のメカニズムや予報のための研究をしていたのです。大倉山では直接の観測をするのではなく、集めたデータの整理や分析をしていたのだそうです。

さらに、幸運は重なるもので、同じく大倉山に勤務していた沼田昭(ぬまたあきら)さんからも話を伺う機会を得ました。沼田さんは海軍気象部特務班(とくむはん)に配属され、昭和20年2月頃から大倉山に勤務しました。特務班は、外国の気象通信(暗号電文)の暗号解読が任務でした。その内部は、アメリカの暗号を解読するA一班(えーいっぱん)・A二班、ソ連の暗号を解読するS班(えすはん)の3班に分かれていました。沼田さんはS班に配属されました。特務班は元は皇居竹橋の近くにありましたが、狭い建物で、大型無線機が入らなかったことが大倉山移転の一因だったようです。大型無線機は、大倉山では、地階東側の物置(現研究所事務室)に置かれました。暗号の解読室は、現在のギャラリー入り口辺りにあった研究室が充てられました。気象電報は1時間おきに24時間発信されていましたが、生活雑音のはいる昼間は受信状態が悪くほとんど聞き取れないので、仕事はもっぱら夜間に行われていました。気象情報の通信については、国際的な取り決めがあり、電文で5文字が3つの全15文字で全ての天気情報が分かるように出来ていました。そのため、暗号にされても、慣れると直ぐに解読出来たそうです。分室には、夜勤で一緒に泊まる者が5人位いて、2、3名ずつ交代で勤務していましたが、電報を取ってくると、みんなで解読の競争をさせられました。慣れれば、4、5分で解読できたそうです。しかし、昭和20年7月中旬以降になると、ソ連は気象電報を暗号化せずに平文(ひらぶん)で通信するようになりました。沼田さんたちは平文をそのまま報告すれば良くなり、事実上仕事は無くなっていたそうです。

昭和20年8月15日の終戦当日から2、3日の間、建物前庭において、分室の資料の焼却が行われました。近所の人たちは、大倉精神文化研究所の資料を焼却していると勘違いした人もいたようです。

大倉山の分室では、このように霧の研究と暗号解読を行っていました。勤務していた人たちは約3、40名いましたが、自分の関係の部署の人としか付き合いが無く、他のことはほとんど分からなかったようです。分室には、女子挺身隊の人たちも勤務していました。その方々からの聞き取りも出来そうですので、今後気象部分室の実態をもう少し知ることが出来そうです。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)

(2004年9月号)

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