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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第80回 終戦秘話-その8- 米軍機の置きみやげ

2005.08.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


今を去る60年前、米軍機による本土空襲は戦争末期の日本に大きな被害をもたらしました。港北区域でも多くの家屋が焼夷弾(しょういだん)で焼失しました(第33回参照)。

昨年、綱島の池谷光朗(いけのやみつろう)さん宅を見学させていただいた時、B29爆撃機が落とした焼夷弾の残骸を拝見しました。焼夷弾にはいくつかの種類がありますが、拝見したのは発火性の油脂(ゆし)が詰まっていた六角形の筒に、それを束ねていた枠(わく)と尾翼(びよく)の部分でした。同行していた錦ヶ丘(にしきがおか)の鈴木毅(すずきたけし)さんによると、鈴木さん宅の庭にも同じ形のものが何十発も落ちてきたそうです。六角形の筒には丈夫な麻ひもの尻尾がついていたので、筒は横にして並べて階段に、尻尾はゲタの鼻緒(はなお)に使ったそうです。焼夷弾の材料も再利用しなければならないほど物資不足が深刻だったのです。

岸根町のEさんが古老の方から聞かれた話によると、ある時B29爆撃機(撃墜されたのかも知れません)からパラシュートで下りてきた米兵が1名いたそうです。捕まえた人たちは米兵を岸根の高射砲陣地へ連行していったところ、そこの兵士に指示されて、鳥山町の城郷国民学校(しろさとこくみんがっこう、現城郷小学校)に駐屯(ちゅうとん)していた陸軍の部隊へ引き渡したのだそうです。

上空を飛行した米軍機は他にも様々なものを落としていきました。

昨年、琵琶橋(びわばし)の話(第67回参照)を取材していた時、新横浜の臼井義幸(うすいよしゆき)さんから、大きな爆弾のようなものを見せていただきました。高さ142センチ、直径37センチ、胴体の中は棚(たな)で4段に仕切られています。「伝単(でんたん)」が入っていた容器なのだそうです。伝単とは、紙の爆弾ともいわれて、戦争中に相手国の市民や兵士の戦意を喪失(そうしつ)させるために配るビラのことです。戦争末期、日本の制空権を握ったアメリカ軍は、B25爆撃機などから盛んに伝単をばらまきました。伝単を見つけた人は、憲兵や警察に届けなければなりませんでした。爆弾型をした伝単の容器は、臼井さんのお父さんが昭和20年(1945)8月1日に金子城(かねこじょう、篠原城ともいいます)の空堀(からぼり)に落ちたのを掘り出して持ち帰ったものだそうです。当時の様子や、この時の伝単に書かれていた内容などは、いずれ臼井さんが本にまとめられるようですから、詳しくはそれを待ちたいと思います。

戦争が終わると、米軍機は別のものをもたらしました。空中写真(航空写真)です。空中写真とは、飛行中の航空機などから航空カメラにより地表面を撮影した写真のことです。国土地理院のホームページに試験公開されている「空中写真閲覧サービス」で簡単に見ることが出来ます。国土地理院では、所蔵する約100万枚の空中写真のデジタル化を進めており、順次公開を予定しています。現在、港北区域では、米軍が1946年4月9日に撮影(高度6,096m、撮影縮尺1/39,980)した写真と、1947年7月9日・24日、9月8日、48年1月8日・12日に撮影(高度1,524m、撮影縮尺1/9,870~9,973)した写真が公開されています。これらの写真の存在は以前から知られていたようで、各種の学校誌や『大乗禅寺』(大乗寺、1998年)、『わが町の昔と今第8巻港北区続編』(「とうよこ沿線」編集室、2004年)などに一部掲載されています。特に、1947年から48年にかけて撮影された写真は縮尺が小さいので戦争直後の区域の様子を非常に詳細に知ることが出来ます。1992年と97年に国土地理院が撮影したカラー写真も公開していますから、比較すると宅地化の進展がよく分かります。なお、比較的最近の空中写真は国土交通省のホームページの国土情報ウェブマッピングシステム(試作版)でも見られます。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)

(2005年8月号)

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