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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第84回 大倉山記念館をめぐる人々 -その2-

2005.12.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


前回は大倉精神文化研究所本館(現、横浜市大倉山記念館)の建設に係わった人々の話をしましたが、今回は、その後に係わった人々の話です。

大倉精神文化研究所は、昭和20年から34年(1945~59)まで大倉山文化科学研究所と改称していましたが、その間、昭和27年から31年(1952~56)まで、出版で有名な平凡社の創業者・社長の下中弥三郎(しもなかやさぶろう)(1878~1961)が所長をしていました。第50回で、極東国際軍事裁判(東京裁判)のインド代表判事ラダビノード・パール(1886~1967)を大倉山に招き講演会を開いたことを書きましたが、それを企画したのが下中所長でした。

下中弥三郎は、百科事典などの出版をする傍(かたわ)ら、文化活動にも熱心でガンジー協会を作ったこともありますし、戦後は世界連邦運動に参加し、その中心的役割を担うようになります。世界連邦運動とは、世界の国々が、軍備を含む主権の一部を世界連邦政府に委譲して、地球規模の問題を平和的かつ公正に解決しようとするものです。

ラダビノード・パール博士も、ガンジーの精神を基礎に世界連邦運動を推進していました。パール博士は、インドのベンガル州の貧しい農家に生まれ、苦学して法学博士となりました。ベンガル州は詩聖タゴール(第49回参照)の生地でもあります。非暴力・不服従運動でインド独立の父となったモハンダス・ガンジーを、初めて「マハトマ(偉大なる魂という意味)」という敬称を付けて呼んだのは、このタゴールです。タゴールとガンジーは生涯に亘る親交をもち、互いに深く影響し合いました。インドでは、二人のことを「国父(こくふ)」と呼んでいます。パール博士はカルカッタ大学タゴール記念法学教授となります。パール博士は二人の国父の弟子といえるでしょう。

昭和27年、下中弥三郎は私費でインドからパール博士を招待し、11月3日から6日まで被爆地広島で世界連邦アジア会議を開催しました。この時が二人の初めての出会いです。その後、11日にパール博士は帰国します。この日、下中弥三郎は世界連邦東京国際大会を開き、11月13日には大倉山でアジア文化会議を開催しています。残念なことに、この頃の資料が研究所にほとんど残っておらず、会議の詳細は不明です。翌14日、横浜市民会館に内山岩太郎県知事・平沼亮三(りょうぞう)市長・市民2000名が集まり、大講演会が開催され、その夜はホテルニューグランドで歓迎レセプションも開かれました。

翌昭和28年、下中弥三郎はパール博士をインドから招き、10月20日から30日まで大倉山で研究者向けの講義と一般向けの講演をしてもらっています。研究所や市民会館で開かれた講演会に参加された方は、平井まで御一報ください。

パール博士は、日本に4度しか来たことがありません。最初が東京裁判、4回目が亡くなる前年に日本国政府から勲一等瑞宝章を受章するためです。2回目と3回目の来日は、なんと大倉山に来ていたのです。大倉邦彦とパール博士は、大倉山でどのような出会いをしたのでしょうか。今となっては知りようがありません。

大倉邦彦は、タゴールと運命的な出会いをして大きな影響を受けました。大倉邦彦の友人である下中弥三郎と、タゴールの弟子であるパール博士がやはり運命的な出会いをして義兄弟の契りを結びました。大倉邦彦にタゴールを結びつけたビハリ・ボースは、下中とパールの友人でもありました。不思議な縁といえましょう。 下中弥三郎やパール博士は、暴力と報復の世界的な連鎖を断ち切り、非暴力に根ざすアジア的平和主義による世界平和の確立を目指しました。彼らの死後も運動は続いています。来年は良い年となりますように。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)

(2005年12月号)

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