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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第87回 ありし日の愛国寺

2006.03.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


栗原勇(くりはらいさむ)は、私が調べただけでも、大正4年から昭和11年(1915~36)にかけて十数冊の本と二種類の雑誌を刊行しています。それらの著作の内、『武士の亀鑑人格の権化畠山重忠公(ぶしのきかんじんかくのごんげはたけやましげただこう)』『相模戦記(さがみせんき)』『武蔵戦記(むさしせんき)』『余生の概説と事件の悲録』から、愛国寺の実態が分かってきましたので、以下に紹介します。「 」内は本からの引用です。

◇開基(かいき) 栗原勇は、自(みずか)ら「貧寒(ひんかん)のドン底にある」と記していますが、私財のみで活動するのではなく、「尊皇尚武赤誠会(そんのうしょうぶせきせいかい)」という団体を組織して、会員の協力により資金を集めて、愛国寺を建設します(余生の...)。栗原勇によると、お寺を開いたのは、昭和8年(1933)11月3日です(相模・武蔵)。この日は、今は文化の日ですが、当時は明治節(めいじせつ)という祝日でした。二・二六事件の2年余り前のことでした。

◇場所 場所は、樽町(たるまち)の「尊皇山(そんのうざん)」(各書)としか記されていませんが、「山腹に関東随一の霊験所熊野神社あり」(武士の、相模、武蔵)と記していますから、師岡熊野神社(もろおかくまのじんじゃ)のある権現山(ごんげんやま)のことを、栗原勇が勝手に尊皇山と呼んでいたことが分かります。また、「尊皇山及(および)太尾公園は都人士(とじんし)一日の散策、学校生徒の遠足に好適地(こうてきち)なり」(武士の、相模、武蔵)とも記しています。当時の東横沿線は、東京や横浜市街からのハイキングコースとして人気でした。斎藤茂吉(さいとうもきち)が妙蓮寺(みょうれんじ)へ来たのもこの頃のことです(第78回参照)。

◇名称・建物 愛国寺には、まず最初に「愛国観音堂(あいこくかんのんどう)」が建設されましたので、当初は正式名称を「愛国観音教会所」といい、通称で「尊皇山愛国寺」と呼んでいたようです(武士の...)。その後、「大日本国防総本山尊皇山愛国寺」が正式名称となったと思われます(相模・武蔵・余生の...)。
 観音堂の様子は、「未だ見る影も無きバラック建」(相模)でした。中には、「過去、戦役事変(せんえきじへん)に於(お)ける皇軍(こうぐん)戦場の血土(けつど)及(および)古今忠臣の墓土を霊櫃(れいひつ)に納め、観音菩薩の尊像及(および)愛国の仏たる陸海軍人像を祭祀(さいし)」(余生の...)していました。

◇住職 城田九一さんによると、愛国寺の住職は佐藤曽右エ門(さとうそえもん)さんという方で、愛国寺に住んでいたそうです。栗原勇は、その住職に随う伴僧(ばんそう)として「日鐵坊(にってつぼう)」という僧名を持っていました。栗原勇の家は東京市目黒区駒場町(こまばちょう)にありましたが、『武蔵戦記』第1号の「はしがき」を愛国寺で書いていることから、時々ここへ来ていたようです。

◇教義・目的 愛国寺は普通のお寺とは異なり、「武士道鼓吹(こすい)の精神道場」(相模)であり、「国防協会なり、仏教連合協会なり、尊皇尚武(そんのうしょうぶ)の精神作興(さっこう)を以て布教の眼目とす」(余生の...)と記しています。
 具体的には、「大楠公(だいなんこう)を始めとし古今の大忠臣及(および)過去の戦役事変に於(お)ける尊(たっと)き犠牲者の忠魂(ちゅうこん)を祭祀(さいし)し、尊皇尚武(そんのうしょうぶ)の精神を普(あまね)く徹底的に振作(しんさく)する」(武士の...)とか、「忠君愛国の全犠牲者を仏として祭祀し、慰霊(いれい)、表彰、併(あわ)せて其(そ)の遺族を愛護救済する」(余生の...)ことを事業の根本としていました。

◇活動 朝夕の読経(どきょう)・回向(えこう)を勤めるだけではなく、しばしば修養講演を行うと共に、国防献金の奨励、軍や満州農業移民への慰問(いもん)、国防婦人会の拡大、凶作地の救済運動など活発な活動を行っていたようです(相模)。
 さらに、土曜日の半日を使って、東京市駒場少年団(栗原勇の居住地)、太尾少年団(寺に隣接の太尾町)、戸部少年団(西区)などに軍事教練をしていました(相模)。吉川英男さんが調査された中にも、実際の鉄砲を担がしてもらえるとか、鶴ヶ峰(旭区)まで行軍(こうぐん)したらしいという古老の話がありました。
 愛国寺では、昭和10年度の事業として、境内にある忠孝松(ちゅうこうまつ)の根元に「護国地蔵尊」の石像を建立(こんりゅう)し、その下へ、過去に皇軍の血に染まった戦場の土を壺に入れて埋める計画をしていました(相模)。しかし、その実現を目前にして、二・二六事件が発生し、事業は中断しました。もし事件が起きなければ、この後、本堂、忠勇文庫、皇道義塾舎、武徳殿などの建物と、赤誠不動尊、忠孝の碑などを建立する計画もありました(余生の...)。

では、このような愛国寺を創建した栗原勇とは、どのような人物だったのでしょうか。その話は次回に。

  • 【付記】 港北地名を調べる会の労作「港北歴史地名ガイドマップ」が完成しました。入手をご希望の方は、発起人の渡辺さんまでお問い合わせ下さい。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)

(2006年3月号)

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