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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第89回 畠山重忠と稲毛三郎重成

2006.05.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


愛国寺では少年団の軍事教練を行っていましたが、大倉精神文化研究所に所蔵している資料の中に、昭和8年(1933)11月に、栗原勇(くりはらいさむ)が大倉邦彦に宛てた手紙が見つかり、そこから教練を奨励するチラシが出てきました。表には、駒場愛国少年団の集合写真があります。裏面(りめん)は、兵林館(へいりんかん)製造の少年用模範教練銃(もはんきょうれんじゅう、4円50銭と3円50銭の2種類)の広告になっています。子供たちはこの銃を担いで鶴ヶ峰(つるがみね、旭区)まで行軍(こうぐん)したようです。

では、なぜ鶴ヶ峰へ行ったのでしょうか。栗原勇は、昭和4年(1929)に鶴ヶ峰の薬王寺(やくおうじ)境内に、畠山重忠(はたけやましげただ)の霊堂(れいどう)を建立(こんりゅう)しています。愛国寺建立の4年前のことです。栗原は、ここを「武神山畠山霊堂(ぶしんざんはたけやまれいどう)」と呼んでいました。

畠山重忠を調べてみると、興味深いことが分かってきました。畠山重忠(1164~1205年)は、武蔵国男衾郡畠山荘(むさしのくにおぶすまぐんはたけやまのしょう、埼玉県深谷市)を本拠とする武士で、鎌倉幕府の有力御家人(ごけにん)でした。栗原勇は、畠山重忠のことを「智仁勇(ちじんゆう)の三徳を兼備し、武士の典型、人格の権化(ごんげ)、数多(あまた)の美談を今日に残したる名将なり」として尊崇(そんすう)し、畠山重忠の武士道を普及することにより国民精神の作興(さっこう)を行い、精神的国防を計ろうとしていました。行軍の目的はここにあったのです。

畠山重忠は、幕府の実権を握ろうとした北条氏と対立して、謀反(むほん)の疑いをかけられ、二俣川(ふたまたがわ、旭区)でだまし討ちに遭(あ)います。重忠はわずか134騎で北条義時(ほうじょうよしとき)が率いる1万余騎の大軍と激戦を繰り広げ、ついに鶴ヶ峰で戦死します。この時、一族の稲毛三郎重成(いなげさぶろうしげなり)は北条氏側についていましたが、畠山重忠の疑いが晴れると、謀反の噂を流した首謀者とされて、重成も殺されてしまいます。稲毛三郎重成は最初「小山田(おやまだ)」と名乗っていましたが、武蔵国稲毛荘(いなげのしょう)を支配するようになってから「稲毛」と改称します。稲毛荘は、川崎市中原区辺りを中心として、日吉・日吉本町・箕輪町(みのわちょう)辺りまで広がっていました。

この日吉の地も栗原勇と関係があります。栗原勇は、愛国寺を建設した後に、尊皇尚武赤誠会(そんのうしょうぶせきせいかい)の目的を実現するために、「尊皇尚武精神道場」を建設しようとしていました。場所は、「東京・横浜及川崎市の中間地区、東横電車の沿線、交通至便(しべん)、高燥(こうそう)景勝(けいしょう)の地たる、日吉の台上(だいじょう)」が選ばれていました。そこへ「実用を主とするバラック式」の道場を建設、各種武道の演練、各種の講演や映画会、参禅、参籠(さんろう)、座談会、青年男女の補習教育などを通して、国民精神の作興(さっこう)を行うことを計画していました。しかし、趣意書を作ったところで、二・二六事件に遭遇(そうぐう)し、日吉の精神道場建設は夢と潰(つい)えたのでした。

畠山重忠に敵対した稲毛三郎重成の所領であった日吉の地に、畠山重忠を尊崇する栗原勇が「尊皇尚武精神道場」を立てようとして実現できなかったことには、因縁めいたものを感じます。

さて、先日緑区の相澤雅雄(あいざわまさお)さんから興味深い話を教えていただきました。横浜貿易新報(神奈川新聞の前身)が昭和10年(1935)に募集した神奈川県の「名勝史跡投票」で選ばれた45ヵ所の中に、なんと建設間もない畠山重忠霊堂が第31位で入選していたのです。武士道復興がさけばれていた、当時の人々の風潮が読み取れます。ちなみに区内では、綱島温泉桃雲台(とううんだい、26位)と新吉田町の若雷神社(わからいじんじゃ、29位)の2ヵ所が入選しています。

4回に亘(わた)り愛国寺について調べてきましたが、またまだ分からないことも沢山あります。吉川英男さんの調査によると、昭和20年(1945)の終戦時に愛国寺はすでに廃寺になっていたらしいとのことですが、廃寺になった時期や経緯は分かりませんでした。栗原勇は、昭和11年の暮れに『余生の概説と事件の悲録』をまとめた後は何も書き残していないようです。栗原勇の弟が自伝を著しているようですが、これも確認できませんでした。愛国寺や栗原勇について御存じの方は是非教えて下さい。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)

(2006年5月号)

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